家康に「友」と呼ばれた唯一の家臣がいる。歴史研究家の皆木和義さんは「自分の分をしっかりとわきまえた、誰よりも主君・徳川家康に忠義を尽くした無私無欲の人生だった。『足るを知る仕事術』を完遂したといえる」という――。

※本稿は、皆木和義『軍師の戦略 増補改訂版』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。

「本多正信画像」
「本多正信画像」(写真=佐々木泉龍画/藩老本多蔵品館/PD-Japan/Wikimedia Commons

徳川幕府確立の最大の功労者

戦国乱世を終息させ、徳川幕府による260年余の太平の世、平和な時代を築いた英雄・徳川家康の腹心が本多正信である。

「人となり深沈膽略しんちんたんりゃく(落ちついて動じず大胆で知略がある様子)あり。明察果断(はっきりと事態を見抜き、思い切った決断ができるさま)一時比なし」(『名将言行録』)と評された。

徳川幕府確立の最大の功労者と評価して良いだろう。しかし、『徳川実記じっき』や『三河物語』などによれば、その評判はあまり良くない。

特に、徳川家の武功派(武断派)の家臣達からは嫌われ、佞臣ねいしん、奸臣呼ばわりされたようだ。権力闘争をするライバルや敵対する側からは悪く、時には極悪非道のようにいわれるのは世の通例ではあるが、それは文治派の優れた吏僚りりょう(役人)、行政官僚ゆえの一つの宿命といえる。

現代でいえば、現場のたたき上げの営業の幹部たちが、現場の苦労を知らない管理部門の経営企画や総務、経理の幹部を非難するのに少し似ているのではないだろうか。

同族で徳川四天王の一人である本多ほんだ忠勝ただかつからは「佐渡の腰抜け」(正信の官命が佐渡守さどのかみであることから)、「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」と散々な言われ方をしている。