足るを知る仕事術

1582年、本能寺の変後に、家康が旧武田領を支配下におくと、正信はその奉行に抜擢された。正信の幅広い経験や視野、忠誠心が買われた結果といえよう。

正信は、甲斐・信濃の統治に手腕を発揮し、武田家臣団の精鋭を徳川家臣団へ取り込むことにも力を尽くした。その後も、吏僚として着実に仕事を重ね、家康の信頼を獲得していった。

1586年、数えの49歳のときには、正信は従五位下じゅごいのげ、佐渡守に叙位じょい・任官されるという栄に浴した。正信の献身的な努力が認められ、名実ともに徳川家の幹部に栄進したのである。

1590年、豊臣秀吉が小田原の後北条氏を征伐。これによって、ほぼ百年に及ぶ戦国の世が終息し、武断政治から文治政治へと時代が大きく動いた。本多正信が力を発揮する時代に入ったといえるだろう。

これと期を同じくして、家康は先祖伝来の三河から関東6カ国250万石余に転封、江戸に入った。関東は未知の地であったので、新領地の経営体制を確立しなければならなかった。このとき、正信は関八州かんはっしゅう庶務奉行(関東総奉行)を命じられるとともに、相模国玉縄たまなわで一万石を与えられて大名に列せられた。数えの53歳だった。

正信は、関八州の領民の統治と治安維持、江戸城への物資を搬入する運河の開削かいさく御典医ごてんい曲直瀬まなせ道三どうざんの屋敷があったので道三掘といわれる)、江戸市街の建設と監督指揮、荒れ果てていた江戸城の改築、さらには新行政機構の整備に全力を傾けたという。これが正信の戦場だったからだ。

豊臣秀吉没後には、天下取りを獲物として狙った。まず、石田三成と加藤清正、細川ほそかわ忠興ただおきなどの武断派大名との対立を仕掛けた。

次に、五大老の実力者の前田利家が亡くなるや、嗣子ししの前田利長に謀反の疑いをかけ、利家の妻まつを人質にしてその勢力を封じ込めた。豊臣恩顧の有力大名との婚姻戦略など、正信は戦わずして勝つ戦略で政略を仕掛けた。

関ヶ原の戦いを前にしては、小早川秀秋らの西軍武将の寝返り工作にも知略の限りを尽くした。

大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家を滅亡させる際には、正信は嫡子の正純と父子して悪役、憎まれ役に徹した。

この大坂の陣では、正信は、鷹狩で勢子が獲物を追い込むように、豊臣家の重臣の片桐且元を操って、豊臣家の内部崩壊を策すなど、謀略の限りを尽くした。このように、献身的な正信に対する家康の信頼はますます篤くなっていった。

正信の台頭は、徳川四天王(酒井さかい忠次ただつぐ本多ほんだ忠勝ただかつ井伊いい直政なおまさ榊原さかきばら康政やすまさ)ら武断派の反感と嫉妬を買ったが、家康の正信への信は変わらなかった。正信との関係は「朋友の如くにて」であり「その謀るところ言葉多からず、一言二言にて尽せるよし」というように、まさに以心伝心だった。

領地の加増を断り続けた無私の生き方

正信には幾度となく加増の話があったが、その都度辞退したという。

それがしは長年大殿の御恩をこうむっております。たとえ家が富まずとも貧しいわけではなく、一生食べていくことができまする。それにもう老人でございます。某にとお考えのご領地はぜひ武功の士にご加増をお願い申し上げます」

他の本多忠勝や井伊直政などの有力家臣が、十万石、十二万石と加増を受ける中、相模国玉縄一万石の禄に満足し、ひたすら家康の天下取り実現に挺身ていしんした。

正信は、日頃から質素な暮らしをしていて、瓜や茄子などのつけ届けをもらっても、一つを受け取ってお礼を言い、残りは全部丁重に返却したという。このように清廉で私心がなかったからこそ、家康に信頼されたのであろう。正信流の無私の仕事術といえる。

皆木和義『軍師の戦略 増補改訂版』(クロスメディア・パブリッシング)
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晩年は二代将軍秀忠の年寄(老中)となり、武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定など、嫡子の正純とともに幕府を支え、260年余におよぶ徳川幕府の基礎を固めた。

大坂の陣で、家康の天下取りが完全に成って初めて、三万石以下ならと加増を受け、二万二千石の知行になったという。

1616年4月17日に家康が逝去、50日後の6月7日、家康49日の忌明けを待つかのように、正信は79年の生涯を閉じた。

「両御所(家康と秀忠)に奉仕して、乱には軍謀にあずかり、治には国政を司り、君臣の間、相遭こと水魚のごとし」と評されたが、まさに水と魚の如く、ともにこの世を去ったといえようか。

一言で、正信の人生を評すれば、自分の分をしっかりとわきまえた、誰よりも主君・徳川家康に忠義を尽くした無私無欲の人生、あるいは、正確なSWOT分析に基づいた「足るを知る仕事術」を完遂したといえよう。

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