家康に「友」と呼ばれた唯一の家臣

また、忠勝と仲の良かった同じく徳川四天王の榊原さかきばら康政やすまさからは「腸の腐った奴」と酷評されたといわれている。

確かにそのようにいわれても仕方ない側面もあったのかもしれないが、家康からは兄弟のように信頼されていて、いささかもその信頼が揺らぐことはなかった。いつの時期からかは明確に特定できないが、ある時期から、家康に「友」と呼ばれる唯一の家臣だったともいう。家康と正信の間柄は「君臣くんしんの間、相遭あいあふこと水魚の如し」ともいわれた。

徳川四天王の一人であった榊原康政
徳川四天王の一人であった榊原康政(写真=文化庁所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

『名将言行録』などによれば、家康の寝室に帯刀したままでの出入りが許されていたともいう。それは通常ありえないことなので、その信頼のほどがしれよう。地位的には、徳川幕府の年寄(老中)、後には、大老格の年寄にのぼったという。

表裏一体という言葉があるが、人にも表と裏、陽と陰がある。徳川家康と本多正信は、阿吽の呼吸で、そういう表裏一体の関係だったのではないだろうか。

この裏の部分、特に、悪役、憎まれ役、政務や謀略などの汚れ役を一手に背負って忠義を尽くし、徳川幕府確立に邁進した文治派の吏僚、参謀型の軍師が、本多正信といえるだろう。

また、トップというのはいつの時代も孤独なものである。その心をよく読んで、正信は家康を支え続けたといえよう。

それにしても、ある時期、つまり、1563年の三河一向一揆の反乱のときに正信は一向宗の一揆側の参謀的立場で、家康に敵対したことがあった。

それにもかかわらず、なぜそのような信頼を得られたのであろうか。これが一つの謎である。しかしそれはきっと家康の度量と本多正信の努力の相関関係、相互作用のゆえだろう。

戦わずして勝つ戦い方を身につけた理由

鷹匠たかじょうという下級武士だった正信は、三河一向一揆後、妻子を残して出奔する。それは数えの26歳の時だった。その後、松永弾正久秀まつながだんじょうひさひでに仕え、『藩翰譜はんかんふ』では加賀国に出向いて石山本願寺と連携し、織田信長と戦っていたとも伝えられている。

いずれにせよ、1570年頃に、重臣の大久保おおくぼ忠世ただよのとりなしで、32歳頃で帰参するまでどこで何をしていたかは定かではない。しかし、この約7年間の他家への仕官しかん(いわば転職)も含めた流浪ともいうべき期間が、本多正信の生き方の骨格を作ったといえそうだ。

ある時期は、失意のどん底に陥ったかもしれない。また、良き主君を求めて、全国をくまなく歩いて、研鑽に励んでいたかもしれない。何を見て、何を学んだのであろうか。

その中で、人生や生き方について思索を深めたことだけは間違いないだろう。後の活躍から推理するならば、諸国遍歴へんれきの経験を積む中、広い視野や情報分析力、勝利のための戦略力や戦わずして勝つ戦い方などを身につけたと考えられる。もしかするとその素養は、鷹匠たかじょう(鷹を訓練する役)の時に、身につけていたかもしれない。

鷹狩は、鷹匠が訓練した鷹を主君(正信の場合は、家康)が手に止まらせて待ち構え、勢子せこが四方八方から獲物を追い立て、走りこんできた兎や飛び立った雉、鶴その他の鳥を目がけて鷹を放ち捕まえさせる狩りで、中央アジアないしモンゴルが起源という。

鷹狩は、数十人、多いときには、数百人の勢子を指揮して獲物を追い込むので、戦の指揮の訓練になるとして、当時の武将の嗜みとされていた。獲物を狙い、俊敏に捕獲する様は、正信の心に獲物の狙い方や戦略を焼き付けていたのではないだろうか。