信長が目をかけて家臣にした竹中半兵衛。彼が体現した真に主君を思った行動とはどのようなものか。歴史研究家の皆木和義さんは「本当の忠義とは、上司や主君の命令であっても、それが主家のためにならなければ敢えて逆らうことあるべしという意味だ。半兵衛はまさにこの精神で、家臣16人を率いて難攻不落の稲葉山城乗っ取りに踏み切った」という――。
※本稿は、皆木和義『軍師の戦略 増補改訂版』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
秀吉が天下を獲るまでを支えた軍師
秀吉に天下を獲らせた軍師として、黒田官兵衛と双璧をなすのが竹中半兵衛である。半兵衛は秀吉が大きく世に出るまでを支え、官兵衛は半兵衛亡き後、秀吉が天下を獲るまでを軍師として支えた。軍師の役割をリレーしたといっても良いかもしれない。
半兵衛は、数えの36歳という若さでの夭折だったが、日々全力を尽くして前向きに生きた。その前のめりの生き方は、現代に生きる我々にも大いに参考になるだろう。
人間はいつ死ぬかわからないが、短くとも昂然と光を放った半兵衛の爽やかな生涯は、いつまでも日本人の心をとらえて離さない。だからこそ、今も人気があるし、伝説的な人物となっている。
半兵衛は秀吉を軍師としてよく助けた。『名将言行録』には、「敵を制すること神の如し」との記述がある。半兵衛の智謀はあたかも神のようであったというわけだ。秀吉は多くの軍功を上げたが、それは半兵衛の功績だったと記している。
さて、半兵衛の父・重元は美濃国(岐阜県)の戦国大名・斎藤道三に仕えていた。そして永禄年間のはじめごろに菩提山に城を築き、六千貫文(三千貫文という説もある)を領していた。
菩提山は岐阜県不破郡垂井町にある標高425メートルの山である。
半兵衛は重元の長子で、幼いころから身体が弱く痩身であった。容姿は「状貌婦女如し」(『名将言行録』)といわれるほど優しく、色白で、女性のようだったという。
性格も温順で細かいことにこだわらない鷹揚な人物であったようだ。少年のころから読書が好きで、中国の張良や諸葛孔明、武経七書などの兵法書を読みふけって兵法を研究していたという。

