難攻不落の稲葉山城
半兵衛は戦にかけては実に沈着冷静な謀略を実行に移せる知勇兼備の知将であった。彼を一躍有名にしたのが、稲葉山城(岐阜城)乗っとりである。
稲葉山城は、織田信長も、その父の信秀も何度も攻めたが落とせなかった難攻不落の城である。なぜそんなに難しいのかと思い私は稲葉山城に登ったことがある。
現在は金華山ロープウェイで山頂付近にまで行けるため楽だが、戦国時代に徒歩で攻め登ろうとすると大変だったろうと思う。標高329メートルだが、徒歩で登ると普通の人で大体1時間ぐらいかかる。1567年(永禄十年)9月に、織田信長がようやく美濃を攻略し、この美濃国井ノ口を岐阜と改めるまでは、この城は稲葉山城と呼ばれた。
他に、金華山城という呼び名もある。たおやかに滔々と流れる長良川の対岸から稲葉山を見ると、山全体が金の花のように見えることから、その名がついたという。
岐阜は、信長の知恵袋ともいうべき僧の沢彦の進言により、古代中国の周王朝の文王岐山によって天下を平定したのにちなみ城と町の名を「岐阜」と改めたという。
美濃を攻略した頃から、信長は本格的に天下統一を目指すようになり、「天下布武」の朱印を用いるようになったといわれている。
女性のような優しい容貌と侮られ
さて、城乗っ取りである。1564年(永禄7年)2月、その難攻不落の稲葉山城を斎藤家の家臣だった竹中半兵衛が一日にして攻略したという。このことは、『明叔録』の快川紹喜による禅昌寺宛の書状や、『名将言行録』に載っている。
この事件は、さぞ織田信長や周辺の大名を驚かせたことだろう。また、この離れ業の稲葉山城攻略は、「美濃に半兵衛あり」と全国にその名を轟かせた。
さて、半兵衛が全国に知られるようになった稲葉山城乗っとりの事の顛末はこうだ。当時の美濃では、1556年4月に斎藤道三が嫡子の義龍に討たれ、道三の娘婿である尾張の織田信長と抗争状態となっていた。
しかし、義龍は1561年5月に35歳で急死。嫡子・龍興が家督を継いだ。このとき、1548年生まれの龍興は数えの14歳だった。
龍興は、政務に関心を示さず、日根野備中守や斎藤飛騨守などの一部の佞臣だけを重用して、遊興に溺れ、有力家臣だった西美濃三人衆(安藤守就、稲葉良通、氏家直元)や知略に優れた竹中半兵衛を重用していなかった。そのような状況だったので、斎藤家の家臣団の心は徐々に離れていった。
『名将言行録』などによれば、斎藤龍興は女性のような優しい容貌の半兵衛を侮り、家臣達までもが半兵衛を馬鹿にした振る舞いが多かったという。

