住友財閥の発展に貢献した人材登用

これは企業の経営においてもマネジメントにおいても注意しなければならないことだ。

私自身も経営者として、人材登用や人事評価において、実力主義にもとづく適材適所の公正な登用や評価をするということに留意した。特に、イエスマンばかりを登用していないか、好き嫌いで人を評価していないかなど、厳に注意した。

このことの重要性については、明治維新の激動を乗り越え、住友財閥の基礎を作った住友初代総理事の広瀬宰平も同様に述べている。

広瀬は「逆命利君 謂之忠」を終生の座右の銘として、おべっか使いの社員を最も嫌ったという。広瀬は逆命利君の人材を広く登用して住友財閥を発展させた。彼が登用した逆命利君の人材は、伊庭いば貞剛ていごう塩野しおの門之助もんのすけ、阿部貞松などがいるが、彼らは、意見の相違からときには広瀬と衝突しながらも、別子銅山の近代化などをはじめ住友財閥の発展に大きく貢献した。

皆木和義『軍師の戦略 増補改訂版』(クロスメディア・パブリッシング)
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激動の世や乱世を乗り越えようと思ったら、リーダーは「逆命利君の人材登用」をすることが大切である。また、リーダーはそういう度量を持たなければならないという証拠でもある。まさに今も昔も変わらないといえよう。

さて、半兵衛のその後である。半兵衛は責任をとって、弟に家督を譲り、斎藤家を離れ、近江に隠棲いんせいした。先の件より半兵衛に目をつけていた織田信長は、半兵衛を家臣にしたいと考え、木下藤吉郎秀吉に半兵衛を説得するよう命じた。しかし、半兵衛は秀吉の度重なる誘いにも、なかなか首を縦に振らなかったという。

秀吉は「三顧の礼」を尽くして半兵衛を説得。ついに半兵衛は信長の家臣となり、秀吉に仕えた。半兵衛は秀吉の人物に何か感じるものがあったのだろう。重い腰を起こし、信長に、そして秀吉に尽くすことを決意した。

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