現代の企業組織にも使える17世紀のガバナンス力
真田家といえば、武勇名高い真田幸村(信繁)や知恵者で徳川家康を苦しめた父の昌幸の陰にあって、幸村の兄の信之の存在は目立たない。しかし、大坂夏の陣で最後まで幸村が徳川家に弓を引いたにもかかわらず、信之の働きによって、真田家は生きながらえた。
真田家の長男である信之は10代前半まで武田家で武将としての教養や嗜みを学んだが、織田信長によって武田家は滅ぼされ、昌幸は危機に陥った。信濃の小豪族でしかなかった真田家は織田、北条、上杉と主家を変え、昌幸は生き残るのに必死だった。そんな父の姿を見た信之は嫡男として自分も真田家を命がけで守ろうと決意した。
天下分け目の関ヶ原の戦いでは西軍につく父や弟と、徳川に味方をして袂をわかった。どちらが勝つかわからない状況下にあって、両軍に分かれれば真田家が残るという、リスクマネジメントの発想があった。信之は、真田家を残すことが自分の役割と覚悟した後は、欲を出さなかった。弟・幸村は武将として華々しく戦ったが、信之は真田家、いわば真田ブランドを守る目的に集中する生き方を貫いた。
家光、家綱に信頼され、徳川4代に仕える
大坂夏の陣で幸村が家康の命を脅かすまで追い詰め、戦死したことは豊臣方からすれば日の本一の武将であるが、一方の徳川方からは真田家は許し難い存在であり、幕府内での立場やブランドは地に墜ちたといっていい。関ヶ原での真田家の選択も批判を招いた。徳川方の勝利後、信之への風当たりが強まり、予測できない動きで相手を翻弄し続けた昌幸にことよせて、「さすが表裏比興の者の子どもだ」「二股をかけた」などといわれることにもなった。
特に2代将軍秀忠との関係は最悪だったといっていい。秀忠は関ヶ原に家康から出陣を命じられた際に、上田城で昌幸と幸村に足止めされて遅参し、大坂の陣でも幸村に苦しめられた。秀忠は、真田家に対して嫌悪に近い複雑な心情を抱いていたが、家康、秀忠の死後も真田家は続き、信之は将軍の家光、家綱に信頼され、徳川4代に仕えた。