「名将」と呼ばれる偉人には共通点がある。「生き方ルール」とでも呼ぶべき信条をもっていることだ。「プレジデント」(2018年2月12日号)では、5人の名将の信条について専門家に考察してもらった。第1回は上杉謙信の「無欲と義の姿勢」という信条について――。

「上杉謙信は戦国大名の常識がなかった」

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群雄が割拠した戦国時代に、上杉謙信ほど“義”を重んじた武将はいない。当時、朝廷が地方の有力者に与えていた官位はほぼ形骸化してしまい、いわゆる下剋上が横行していた。そのなかにあって、彼は天下盗りの野望も持たず、武田信玄との5度におよぶ川中島の合戦も、信玄に追われた信濃の豪族たちを救済するためのものだった。

真剣に物事に取り組む様子を「一所懸命」という。一所というのは土地のことで、武将にとって、土地を支配し、年貢を徴収することが領国経営の基盤だった。だから、それを奪おうとする者とは戦うわけだが、謙信は他の武将のように己の欲のために合戦を仕掛けたことは1度もないといっていい。いい意味で戦国大名の常識がなかったといえる。彼は「おれは越後の人と土地を守る。それが俺の役目だ」と決めていたのだろう。

戦略としては、越後の豪族たちから信頼を勝ち取ることだった。土地も一旦は謙信に返上させ、そのうえで私することなく誰もが納得する再配分をしたのだ。そして、彼らを直臣として越後国内のいくつもの砦を任せたのである。そうした主従の“絆”は、無敵を誇る上杉軍団となり、その自信は足軽一人ひとりにまで浸透していく。

▼なぜ武田信玄は「甲斐の国に何かあれば謙信を頼れ」と言ったか

それには、越後一国を統治する理念が必要である。現代の会社に当てはめればミッションといえるだろう。上杉謙信が掲げたのが「第一義」という言葉である。禅の思想から生まれたものだが、それをよく物語る逸話がある。ライバルの武田信玄でさえ、死の床にあって「甲斐の国に何かあれば謙信を頼れ」と遺言したと伝えられているのだ。

史実は確かではないが、謙信の美談に「敵に塩を送る」というものがある。信玄と今川氏真との同盟が破棄された後、氏真は海のない武田領への塩の輸送を全面禁止した。謙信はこのことを耳にし「卑怯な手段を取るべきではない」と、越後の商人が塩を送ることを黙認したという。こんな逸話が生まれるほど、宿敵に対しても感情にとらわれた選択はしなかった。