「名将」と呼ばれる偉人には共通点がある。「生き方ルール」とでも呼ぶべき信条をもっていることだ。「プレジデント」(2018年2月12日号)では、5人の名将の信条について専門家に考察してもらった。第5回は勝 海舟の「無神経を押し通す」という信条について――。

なぜ勝海舟は左遷や逆境をハネ返したか

ペリー率いる黒船の来航をきっかけに、徳川幕府300年の歴史が揺らぎはじめる。その落日のなか、ひときわ鮮やかな光彩を放ったのが勝海舟である。武士たちが藩に縛られていた時代にあって、海舟だけは“この国”という思考原理で行動していたからだろう。おそらく、日本人という意識を初めて持った人物だったのではないか。

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少年期は、御家人の子の多くがそうであったように剣術に明け暮れていた。だが17歳のときに、海舟は世界地図を見る機会に恵まれたという。彼は日本の小ささに驚くとともに「これだけ広い国々を知らずに死ぬわけにはいかない」と痛切に思ったはずだ。海舟はその手がかりを蘭学に求め、必死の習得を決意した。

海外の知見や文献に接したことで、身分制度や藩閥政治に疑問を抱く。封建的な価値観が剥げ落ちるようにして、海舟の生き方は開明的になっていった。そして、小普請組という低い立場とはいえ幕臣の身で、彼は幕政の欠点を口にするようになる。

こうした態度は、ややもすると周囲から“外国かぶれ”との批判を招きかねない。しかし、海舟にとって、そんなものはどこ吹く風。傍から見ると無神経と思えるほど、おのれが正しいと信じたやり方を押し通す。彼は「世の中に無神経ほど強いものはない」と語っている。この言葉の本意は、こまごまとしたことに右顧左眄することなく、ドンと構えている人間が誰よりも強いということだろう。

革命的生き方を貫いて、浮き沈みの人生

やがて海舟は、オランダ語や西洋流砲術の専門家になっていく。力量を認められ、神戸海軍操練所の建言で、42歳で軍艦奉行に就任。近代海軍の創設を任されるが、幕閣の思惑とは異なり罷免される。幕末の動乱のなかで革命的な生き方を貫けば浮き沈みの激しい人生になってしまう。

実際、彼は左遷や逆境を何度も繰り返す。現在のビジネス社会でもそうだが、そんなときは我慢をし、与えられた場所で最善と思えることを一生懸命にやるしかないのだ。それが海舟の強さでもあった。

彼の談話に「事を遂げる者は、愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない」というのがある。74歳のときに、ジャーナリストの巌本善治に語ったものだが、ひたすら人事を尽くしたら天命を待つ。無神経にも通じるこの愚直さが海舟にはふさわしいだろう。