半兵衛、「逆命利君」をなす

あるとき、龍興の家臣がやぐらの上から半兵衛に小便をひっかけて小馬鹿にしたことがあったが、半兵衛は何食わぬ顔で小便を拭いて、菩提山城に帰った。

半兵衛とて悔しく激怒しただろうが、その家臣たちのバックには主君の龍興や側近の奸臣がついているので、その場は黙って忍耐したのだろう。

しかしながら半兵衛は、龍興を始めとする側近たちの横暴や度重なる無礼に、怒りを募らせていた。我慢できなくなった半兵衛は、これを懲らしめるべく妻の父、美濃北方城主・安藤守就もりなりに相談した。安藤はそれを聞き軽挙妄動を戒めたが、これを半兵衛は聞き流したという。

このまま手をこまねいて佞臣たちの側近政治を放置しておいては、人心は離れ美濃の国自体がおかしくなってしまう。主君と家臣の心が離れて、国がバラバラになれば、この戦国の世、いつ何時敵に攻め込まれるかもしれない。主君に目を覚ましてもらわなければならない。大義とは何か。半兵衛はそう思い、策を練ったに違いない。

きっと半兵衛は「逆命利君ぎゃくめいりくん」たらんとしたことだろう。これは、中国の古典『説苑ぜいえん』に出てくる言葉である。

「逆命利君、謂之忠」(命に逆らっても君を利す、之を忠と謂う)とある。「本当の忠義とは、上司や主君の命令、たとえ国家の命令であっても、それが主家のため国家のためにならなければ敢えて逆らうことあるべし」という意味である。

1564年(永禄7年)2月のことである。稲葉山城には人質として送っていた半兵衛の弟の久作きゅうさく(諱は重矩しげのり)がいた。このように、当時は有力家臣が人質を出すことは通例だった。

半兵衛は久作と示し合わせ、彼に病と偽らせた。夕刻、頃合いを見計らった半兵衛は、弟の見舞いという名目で長持ち(和櫃わびつの一種で、衣類や蒲団、調度品等を入れておく長方形をした蓋付きの大きな箱)に武具を隠して雑人にかつがせ、家臣16人を引き連れて稲葉山城へと向かった。

門番が長持ちを不審に思って問いかけると、これは人々に振る舞うための酒食と説明し、咎められることなく城内に入った。半兵衛らは城内の一室で武具に身を固め、一気に奇襲を開始した。

半兵衛はまず宿直の番将の斎藤飛騨守をまっぷたつに斬り伏せたという。大将を真っ先に叩くのが戦いの勝利の常道である。

信長の意表を突いた言葉

その異変に気づいて駆けつけた番兵の多くを、半兵衛は16人の家臣たちと一丸となって斬り捨て、稲葉山城を瞬く間に制圧。油断していた城兵は夜間ということもあって慌てふためき、龍興もなすすべもなく寝巻のまま城から脱出したという。

これを伝え聞いた織田信長は、「稲葉山城を明け渡すならば美濃半国を与えよう」と半兵衛に申し入れてきた。しかし半兵衛は「我は国土を他国人に引き渡すことは望むところに非ず。我は、主君の行動を諫めるために決行しただけであり、主君が反省すれば、城は本人に返すつもりだ」ときっぱり拒絶した。

野心のまったくないこの発言は、親子兄弟が血で血を争う下剋上の戦国の世にあって信長の意表を突く言葉だったろう。半兵衛はその言葉通り、後半年ほどして龍興に城を返した。

岐阜公園正門と若き日の織田信長像
岐阜公園正門と若き日の織田信長像(写真=杉山宣嗣/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

このエピソードは純粋に国のことを思う半兵衛の智謀とあわせて、武将・半兵衛の剛毅な実践者の面を表しているのではないだろうか。

「動機善なりや私心なかりしか」という京セラの稲盛和夫元会長の言葉があるが、半兵衛は、動機が善で、私心がなかったといえよう。半兵衛の無私の精神をよく表しているエピソードである。

同時に、「治国平天下」を目指して国を治める場合、「逆命利君」の人材登用が重要である。主君の龍興は、自分の耳に良いことばかりを入れてへつらうイエスマンばかりを集めて政治を行った。それが理由で人心を離反させ、国を危うくしていたので、半兵衛は警鐘を鳴らしたわけである。