「討ったらしい」噂が瞬く間に広まった

ここで注意したいのは、これがあくまで伝聞、それも誤りを含む第一報だという点だ。英俊は嫡男・信忠までも「光秀と信澄が示し合わせて討った」と書いているが、これは事実ではない。信忠は二条御所で力尽きたのであって、信澄は関与していない。

だが、ここで重要なのは、正確さではない。

この英俊がいたのは興福寺、すなわち奈良である。本能寺からは、ゆうに数十キロ離れている。その奈良にまで、変の起こった日には「信澄と光秀がつるんで信長を討ったらしい」という話が、しれっと届いていた。しかも英俊は、伝聞だの未確認だのといった留保を、ほとんど付けていない。「惟任と七兵衛、申し合わせて」と、まるで見てきたかのように書いている。

冷静に考えてほしい。この時点で信澄は、何もしていない。光秀と通じた証拠もない。ただ大坂で、四国渡海の支度をしていただけである。

なのに、奈良の学僧までもが「ああ、信澄ね。まあ、あいつならやるわな」と、即座に腑に落ちている。誰も「いや待て、本当にやったのか?」とは言わない。父が謀反人で、妻が光秀の娘。役満のように揃った属性だけで、世間はもう答えを出していた。「信澄=共犯」は、確かめるまでもない常識として、変の当日に畿内を駆けめぐっていたのだ。

楊斎延一画「本能寺焼討之図」
楊斎延一画「本能寺焼討之図」。名古屋市所蔵(写真=ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

父は謀反人、妻は光秀の娘…犯人扱いされた信澄

これは、酷い。

本人の行動を一切見ないまま、「あの家系の、あの婿なら、やって当然」で処理される。現代でいえば、事件が起きた瞬間にSNSで「こいつでしょ」と名指しされ、本人が一言も発しないうちに犯人として確定し、拡散されきっている状態である。情報の伝達が、馬と人の足だけだった時代に、噂はそれと同じ速さで人を断罪していた。

そして気づくことがある。

この「信澄=共犯」の噂は、ほんの一両日中で生まれたものではない。もっと前から――おそらく信澄が物心つくよりも前から、織田家の中にずっと流れていた認識が、信長の死をきっかけに、一気に表面化しただけなのだ。

「信澄さんは、ええ人なんやけどなあ。……ただ、親父がなあ」

この「親父がなあ」を、織田家の大人たちは全員、腹の底に抱えていた。勝家は信勝の旧臣だった。長秀も、稲生で兄弟が殺し合った時代を肌で知る世代だ。彼らにとって信澄は、生まれたときから「あの信勝の倅」だった。

そして、『多聞院日記』は6月5日、こう続ける。

於大坂七兵衛ヲ生害云々、向州ノ壻、一段逸物也、三七殿・丹羽ノ五郎左衛門・鉢屋(蜂)なとの沙汰歟、但雑説歟云々(注記)必定必定


筆者訳:
大坂にて津田七兵衛(織田信澄)が殺害されたという。彼は明智光秀(向州)の娘婿であり、ひときわ優れた器量人(逸物)であった。織田信孝(三七殿)や丹羽長秀(五郎左衛門)、蜂屋頼隆(鉢屋)らが仕向けたことなのだろうか。それとも、まだ根拠のない噂なのだろうか。(後からの注記)いや、やはり確実な事実であった。