信長は天下を信忠に譲ると公言

翌年には、大軍を率いて大坂本願寺に対して示威行動したが、この時、総大将の信忠はまだ22歳(数え年。以下同様)の若武者であった。正確な軍勢は不明であるものの、参陣武将や動員エリアから推測すると、おそらく5万以上の大軍だったと思われる。22歳でこれだけの大軍を率いたのは特筆すべき実績だろう。のちに二代将軍となった徳川秀忠が関ヶ原の戦いの時、別働軍を率いて西上したが、この時の秀忠も22歳だった。秀忠は諸般の事情があったにせよ、西上軍の軍事行動は不首尾に終わった。比較すべくもないことながら、信忠の優秀ぶりが見えてこよう。

織田信長の肖像画
織田信長の肖像画(長興寺所蔵の絵の模写)(画像=東京大学史料編纂所/PD-Japan/Wikimedia Commons

その後、天正10年(1582)の武田攻めは信長が総大将となる予定だったが、先鋒の信忠が、信長の制止も振り切って快進撃を続け、武田氏を滅ぼす武功を挙げた。信長もその実力を認め、「天下」も信忠に譲ると公言したほどだった。

当然ながら信長の重臣からも後継者として十分に認められていた。信長を裏切った荒木村重などは、謀反後1年近くも経った時ですら、毛利方への書状において、自らが織田軍に攻められていたが、「中将殿も自身動かれ候」と書き送っている。村重の人間性といえばそれまでだが、敵対したにもかかわらず敬意をもって記している。こんなところにも村重の信忠に対する旧主時代の名残が垣間見られる。

本能寺の変に巻き込まれなければ…

信忠が本能寺の変に巻き込まれていなければ、豊臣秀吉の時代は到来しなかっただろうし、徳川家康が歴史に占める位置づけも変わっていただろう。ただ、贔屓ひいきの引き倒しになってはならない。江戸時代初期に刊行された小瀬甫庵おぜほあんの『太閤記』にも「信忠卿は才勇兼備かねそなわりし明将」と評価されているが、どれほどの力量を備えていたかはやはり未知数としかいえない。

最大の功績は武田氏を滅ぼしたことだが、これとても信長の威光があったればこそという見方もできよう。しかし、まだまだ予断を許さない戦国の世で、天下に強兵を謳われた武田氏を見事に打ち破ったという評価もあながち的外れではないだろう。

信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、その名を天下に轟かせたのは27歳の時だったが、信忠が本能寺の変でたおれた時は、それより1歳若く、まだ26歳であった。信長も経験したことのない道を歩み始めたばかりでもあった。

月岡芳年画「大日本名将鑑 織田右大臣平信長」
月岡芳年画「大日本名将鑑 織田右大臣平信長」、明治11(1878)年(画像=ロサンゼルス郡立美術館所蔵/Public domain images from the Los Angeles County Museum of Art/Wikimedia Commons