事業で成功した宗一郎が真っ先に向かった場所
六年間で、宗一郎は、自動車の機構はもちろん、修理のコツも習得した。自動車の運転もできるようになった。いよいよ年季も明け、浜松に帰った。主人から分けてもらった、「アート商会浜松支店」を開き、一本立ちになった。
父親は、宗一郎の開店を喜び、家屋敷と米一俵を贈ってくれたという。とにかく、なんでも修理したので、次第に一目置かれるようになり、その年の暮れには、八十円の純益を出した。
最も目覚ましかったのは、さんざん悩ませられていた、木製のスポークを廃し鉄製にして、特許を取得したことである。鉄製スポークは、大変な評判を呼んだ。インドまで、輸出されたのであるから、日本の中小企業としては、目覚ましい成果といえるだろう。
二十五歳で月に千円の利益を上げられるようになった宗一郎だったが、金を儲けるとすぐに社員を連れて遊びに行くので、金はまったく貯まらなかった。浜松芸者を連れて、静岡まで花見に行ったというのだから、相当の遊び好きだ。
レース中の大事故で悟った真理
昭和十一年七月。宗一郎は、三十一歳になっていた。コンクリートで固めた競走場は、青い芝生と白線に仕切られている。やがてスターターのホイッスルが鳴り、宗一郎はスロットルを開いた。
フォードをレーサーに改造した愛車は轟音とともに、弾丸のようにとびだしていった。エンジンの響きが、自らの体の中で震えているようだった。レースは、予想通り宗一郎の圧勝のはずだった……が、突然修理中の車が横からトラックにはいってきた。
次の瞬間、宗一郎の車は、もんどり打って跳ねかえっていた。ぐらりと自らの身体が大きく回転した。車から放り出された宗一郎は、地面に叩きつけられ、跳ねて二度目の衝撃を受けた。意識を回復した時、宗一郎は、顔中に熱湯をかけられたような、痛みを感じたという。
にもかかわらず、激痛のなかでも、自分の生命を感じていたという。宗一郎は痛みに耐えながら、言った。「弟は?」看護婦は言う。「御無事ですよ、よく助かりましたね」
宗一郎の怪我は、顔の左側がつぶれ、左腕を肩の付けねから抜き、手首を折っていた。助手席の弟は、四本の肋骨を折る重傷だった。宗一郎は、思わず考えた。「人間は、容易には死ぬものではない」
宗一郎は、戦時中、ピストン・リングを作っていた。自動車、船舶、航空機それぞれのピストン・リングを製造していたのである。
中島飛行機のエンジン部品も少し作っていた。その工場を半分疎開させたところで、終戦を迎えた。船も飛行機もいらなくなり、ピストン・リングは売れなくなった。
千人いた工員は終戦と同時にばらばらになり、三百人に減った。トヨタから来ている重役と意見が合わず、トヨタ解体の噂もあったので、これを機にトヨタから離れた。
持っていたトヨタの株も売って、四十五万円という大金を手にしたが、一年間尺八を吹いて遊んでいるうちに全部使ってしまった。
「一にも技術、二にも技術で革新しなければならない」
昭和二十一年に本田技術研究所を設立した。ちょうど、四十歳の時だった。
浜松の辺りに買っておいた地所があったので、疎開工場のバラックを建てた。考えついたのが、モーターバイクだった。
戦時中、軍が使用していた小型のエンジンを買い集め、それを自転車につけたのである。それが大好評になった。買い集めた小型エンジンは、あっという間に払底したので、改めて自家製エンジンを作ることにした。最初はタンクなどなく、湯たんぽにパイプをつけて代用にする、という有様だった。
当時の月産は、二百から三百台ぐらいだったという。そんな中で、オートバイを作りたいという野心がわいてきた。研究所全員の知恵を集め、アイデアをだしあった。
とりあえず、強いフレームと馬力の強い車を製造することで一致し、完成祝には、ドブロクで祝杯を挙げ、その席上で宗一郎は気炎を吐いた。
「とにかく、長い戦争が終わってみると、日本の技術は、ひどく遅れていることに気づいた。この遅れを取り戻さなければならない。したがって我々は、一にも技術、二にも技術で革新しなければならない」
昭和二十一年十月、本田宗一郎は浜松市山下町の焼け残った町工場を買い取り、「本田技術研究所」を立ち上げた。わずか十数人の従業員たちとのスタートだった。
最初のヒット作は原動機付き自転車である。旧陸軍六号無線機用の小型エンジンをスクラップ同様の価格で買い取り、「インスタントオートバイ」を作り出した。