生涯のパートナー、藤沢武夫との出会い

出だしは好調で、二年後には、本田技研工業株式会社が誕生する。二十四年。宗一郎は、生涯のパートナーを得た。藤沢武夫である。

藤沢は小石川生まれの江戸っ子で、京華中学を卒業後、会社勤務を経て、「日本機工研究所」という切削工具を作る工場を開いた。二人を引き合わせたのは、当時、通産省の官僚、竹島弘であった。

初対面で藤沢は「あなたはこの先、金の心配はいっさいしないで十分物づくりに励んで下さい。他はすべて、このあたしが引き受ける」と豪語した。

昭和三十二年。宗一郎は、イギリスのマン島で毎年行われるオートバイの世界選手権を見学した。これはツーリスト・トロフィーレースといって、世界最高峰を目指すもので、伝統も技術も際立った有名なレースだった。

一周六十キロのコース七周、計四百二十キロという大きなレースであった。出場するオートバイも、日本では到底作れない精密かつ耐久力も秀でたエンジンが、鎬を削るのである。一万三千回転というのは、一秒間にエンジンが百回以上爆発しないと、出せない回転数だった。日本の技術では、七千五百回転がせいぜいであった。いつになったら、日本で、こんなエンジンを作ることができるのだろう……宗一郎は、真剣に悩むと同時に闘志を燃やした。

「必ずスピードに勝って、日本のエンジン技術を世界に披瀝ひれきしてやろう」

しかし、この頃会社は経営不振にあえいでいた。設備の一大近代化をはかるために、アメリカに新鋭機械を発注し莫大な投資をしたというのに、カブ号、ドリーム号、ベンリィ号などそれまでのドル箱商品が頭打ちとなり、新車のスクーターも売れ行き不振に陥ってしまったのだ。

果たして莫大な投資とはどれほどのものだったのか。実に四億五千万円である。資本金たかだか千五百万円の会社では到底ありえない額だ。

しかし、宗一郎は断行した。これこそ、人生を賭けた蕩尽である。

「こうなったら、本田の兄貴と心中しよう」と腹をくくった藤沢の必死の資金繰りと「ベンリィ号」改良型のヒットにより、会社はもちなおした。

三十四年、マン島レースに初出場したホンダは五位入賞を果たした。さらに二年後の同レースでは、一二五cc、二五〇ccの二つのクラスで一〜五位をホンダが独占し、完全優勝を果たしたのである。

現地のマスコミはこぞって「東洋の奇跡」と書き立てた。四億五千万の投資によって整えられた設備、「レースに出場したい」という宗一郎の闘志、エンジン開発への熱意なしには果たせなかった「奇跡」である。

ホンダコレクションホールに展示されているバイク
ツインリンクもてぎのホンダコレクションホール。左からマン島でレ―ス優勝をもたらしたHonda 2RC143、Honda RC112、Honda RC145(写真=Kzaral/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons