12月25日、スズキ元会長の鈴木修氏が94歳で死去した。1978年から43年にわたりスズキの経営トップを務め、日本車メーカーとして初めて進出したインドではシェア1位を獲得するまでに成長を遂げた。生前に鈴木氏を取材したノンフィクション作家の野地秩嘉さんが書く――。

インドの自動車産業の父

オサム(鈴木修)さんが亡くなった。1930年生まれの94歳。オサムさんは一歳年下の高倉健さんが好きだった。そして、豊田章一郎さんと章男さんのことも好きだった。

オサムさんは章男さんについて、こう言った。

「立派な経営力があります。尊敬してますよ。章男さんはリコールに際してアメリカに飛んでいかれたんです。素晴らしいことだと思います。身体をはってトヨタ自動車と豊田家を守った。身体を張ったんです」

写真=AFP/時事
スズキの鈴木修さん(インド西部グジャラート州)

「オサムさん」と書くのはスズキのインド工場の従業員がそう呼んでいたからだ。彼らは「オサムさん」もしくは「オサム会長」と日本語で言っていた。「オサムさん」と言う時、インド工場の現場の人たちはニヤッとして、口を開けて笑った。よほど好きだったのだろう。

現場の人たちはオサムさんがスズキのトップで、インドの自動車産業の父だと理解していた。

オサムさんがインドで車の生産を始めたのは1983年だ。それから42年がたった。現在、スズキのグローバル売上高(連結)は5兆3,743億円。そのうち2兆2352億円がインドのそれだ。生産台数では全世界327万台のうち198万台がインド製である。

これまでインドで生産した累計台数は3000万台。単純に考えれば3000万人のインド人がスズキの車を買っている。買った人が家族や友人を車に乗せたとする。1台当たり6人を乗せたとすると、2億人近いインド人がスズキの車を体験している。2億人のインド人に乗車体験を提供したのがオサムさんだ。

「儲けは小さくていいんだ」

オサムさんが海外に進出したのは「どこかの国でナンバーワンカンパニーになる」ためだった。

「一等賞を獲らないと元気が出ない」からというのがその理由で、最初に進出したのはパキスタン、次がハンガリーだった。インドの影に隠れているけれど、スズキはパキスタンとハンガリーでもナンバーワンシェアだ。

海外に進出する時、オサムさんが決めたのはエントリー層の客を大切にすることだった。初めての人が買いやすいようにコストを下げ、売り値も安くした。

「儲けは小さくていいんだ」と言ったのもオサムさんである。

また、初めて車を買う人たちの気持ちを考え、納車式をインドに持ち込んだ。納車式といっても今の若い人は知らないだろうけれど、かつては日本でも盛んだった。1960年代のモータリゼーションの頃、車を買うことは一大セレモニーだったのである。

車を買う時はユーザーだけでなく、家族や親戚一同を引き連れて自動車販売店を訪れた。販売店で納車式を行い、その後、ユーザーは自身の新車を運転して自宅に帰り、飲めや歌えの宴会を行ったのである。