最初のキャリアは警視庁

大学の同級生には、重光葵、芦田均、石坂泰三がいた。正力は、同郷の先輩の南弘――内閣書記官長、逓信大臣、台湾総督――に見込まれて、高等文官試験に合格し、警視庁に入ることになった。

警部の辞令を受けとったのは、大正二年六月。二十八歳の時だった。

翌年の六月、正力は、警視に任官し、日本橋堀留署長に任じられた。

問屋街や、蛎殻町の相場屋、人形町の盛り場を抱える、殷賑いんしんな地域である。

「成金」の代表格として、有名な鈴久こと、相場師の鈴木久五郎などは、客をもてなすのに、丸裸の芸者に給仕をさせた、という伝説が残っている。

富商が軒を連ねる街は治安も悪く、詐欺恐喝が横行していたが、被害者は後難を怖れて、泣き寝入りするしかなかった。

正力は憤った。

「悪党に手がでない、そんなことがあるか」

厄介なのは、刑事たちが、悪党と結託していることだった。

刑事たちは、彼らから小遣いをもらい饗応を受ける見返りに、情報を流していたのである。

正力は、刑事たちを集めて訓示をした。

「今までのことは、水に流そう。私も忘れるし、君たちも忘れてくれ。今後、諸君が、身命をかけて任務に精励することを、私は信じている」

整列する日本の警官
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騒動に巻き込まれ大けが

大正七年七月二十二日。富山県下新川郡魚津町の主婦たちが、救助を求め騒動を起こした。

不漁の上、米価が騰貴していた。

大阪毎日と大阪朝日が、この騒動を報じたため、たちまち一道三府三十二県にひろがった。

一方、東京の日比谷公園では、米価問題市民大会が開催されようとしていた。

主催者も責任者もいない、無届集会だった。

警視庁は各署から五百人の警官を動員したが、手がつけられず、暴動となった。

日本橋久松署から、米穀取引所が襲撃を受けている、という報告が届いた。

正力が夜八時、現場にかけつけると、群衆は取引所を包囲して投石していた。

正力は、頭左部に大きな石をぶつけられ負傷した。

長さ、六、七センチ、骨膜に達する重傷だった。

正力の血まみれの姿を見て、群衆は静まりかえった。

警官隊は、その隙に、暴徒を一網打尽にして、検挙してしまった。

東京では、浅草吉原の襲撃をもって騒動は、鎮静していった。

井上清、渡部徹編の『米騒動の研究』は、実に百万人前後の人々が、騒擾そうじょうに参加した、と記している。

大正デモクラシーのさなかに起きた大騒擾事件は、山縣有朋を筆頭とする元勲たちにも、激しいショックを与えた。