戦犯として逮捕され巣鴨プリズンへ

読売新聞の新社屋が落成したのは、昭和十四年十一月であった。

その年の九月ドイツ軍がポーランド進撃を開始し、第二次世界大戦が勃発している。

工事の進行とともに発行部数も増えていき、昭和十年時の二倍の百二十万部と急増し、業界のトップに君臨することになった。

正力は、厳しい統制時代の渦中にも、全国制覇の野望に燃えていた。

昭和十六年十二月八日。海軍が、真珠湾を攻撃し、太平洋を舞台にした大戦争が勃発した。昭和二十年八月十五日正午。天皇は、ラジオを通じてポツダム宣言の受諾、戦争終結の詔を放送した。

九月二日には、アメリカの戦艦ミズーリ号で重光葵および梅津美治郎両全権により降伏文書の調印が行われた。

十二月二日朝。GHQは、戦争犯罪人の指定を行った。梨本宮守正王を筆頭に、平沼騏一郎、広田弘毅ら重臣、元蔵相の池田成彬、元内務大臣の後藤文夫、そして正力松太郎も、戦犯として逮捕された。

東條英機元首相は、米軍の到来を目前にして、自決を図ったが、心臓を撃ち損ねて死にきれなかった。正力は、巣鴨プリズンに収監された。わずか三畳の部屋で、三十五年ぶりに座禅を組んだ。一日、五時間、坐ったという。

「今、アメリカでは、テレビジョンが流行っている」

二十二年には釈放されたが、公職から追放され、カムバックには時間がかかった。読売の社屋は出入りが禁止された。怏々おうおうとする日々が続く中、日産コンツェルンを築いた鮎川義介が訪ねてきた。

「今、アメリカでは、テレビジョンが流行っている。この仕事は、君にしかできない」

実のところ、正力もテレビについては、深甚な興味を抱いていたのである。

必要な資金は、十億円という莫大なものだった。

しかし、正力は諦めなかった。池田勇人蔵相の肝いりで、三田綱町の蔵相官邸で、テレビに関する懇談会が設けられ、財界、政界からの全面的支持をとりつけた。

昭和二十六年十月、正力は電波監理委員会へ「日本テレビ」の免許を申請。

翌年七月予備免許が交付された。かくして、有楽町の読売新聞社別館に「日本テレビ放送網株式会社創立事務所」の看板が掲げられたのである。

正力の構想に、最も大きな衝撃を受けたのは、NHKだった。

テレビを手がけるのであれば、当然、公共放送たるNHKが先という目論見が完全に破れたのである。

昭和二十八年八月二十八日。日本テレビの開局披露式が行われた。