フィンランドで信頼構築に腐心
1990年代初め、十條製紙(現・日本製紙)の技術本部生産部で技術調査を担当していたとき、フィンランドへの出張が続いた。同国の製紙会社と合弁会社をつくり、感熱紙の生産と販売を始める交渉がまとまり、それを推進する調整役を命じられたからだ。85年の「プラザ合意」以降の円高で、日本からの輸出競争力が低下したことが背景にあり、41歳から42歳にかけて、一度の出張が1週間から10日間になった。
感熱紙は、ラベリング用からレジのレシートに至るまで広く使われ、欧州市場は拡大していた。80年代前半にドイツのデュッセルドルフに3年駐在したときは、コピー機向けのノーカーボン紙の現地生産に、合弁相手を探した。試作品をつくる段階までいった候補もあったが、結局は相手の経営方針の変更で不成立に終わる。ユーザーを回っての技術サービスの傍らでやったが、フィンランドの件では、そのことに集中した。
相手には、感熱紙の生産経験はない。技術をどう移転していけばいいか、相手が持つ整備をどう改造すればいいのか、原材料はどこで調達するのが最適かなど、決めるべき課題は多様だ。日本で感熱紙を手がけている勿来工場(福島県)や研究所から、何度も技術者を連れていき、相手の従業員を指導してもらう。試運転にこぎつける前に、操業マニュアルなども揃えた。すべてを1人で仕切ったから、出張の回数は10回に及ぶ。合わせて、数カ月分になった。