孤立を恐れず信念で共感集める
東日本大震災から、6年が過ぎた。JR仙台駅から東北東へ50キロ余り。車で三陸自動車道を進むと、石巻市の街に入る前に、高さ106メートルの煙突から水蒸気の白煙が上がるのがみえる。日本製紙石巻工場だ。その白煙は、2011年3月11日以来5カ月間、たなびく日はなかった。
地震発生時、工場には従業員や協力会社の計1306人がいた。約1時間後に大津波が襲ったが、その前に避難誘導にあたった5人以外は、北東の標高60メートルほどの日和山へ逃げた。逃げ遅れた5人も、タンクなどの梯子に上って、無事だった。だが、非番で海岸近くなどにいた従業員や協力会社の人たちが、亡くなった。
津波は、南の太平洋側からだけでなく、西の専用埠頭や東の旧北上川からも、襲った。壁を突き破り、1階の電気設備などを破壊。周囲の家々を押し流し、車を次々に呑み込んだ。浸水は高いところで4メートル。埋め尽くしたがれきは2メートル。誰もが「もう終わり、再起不能だ」と思う。
その石巻工場に92年7月、技術室次長として赴任した。まだ十條製紙(現・日本製紙)の時代で42歳。工場は、旧王子製紙が東北の豊かな森林と水資源に着目し、政府がつくった東北の振興会社と38年に設立。戦後、財閥解体で旧王子製紙が分割してできた十條製紙が、68年に合併した。
技術室では急激な円高に備え、欧州勢との競争力の維持に、生産性向上策に取りかかる。93年に山陽国策と合併後、新設された企画調整室で室長となり、引き続き数年間にやるべき提言をまとめた。鍵は、生産工程の自動化とアウトソーシング。前者は、設備投資には本社の認可が要るので時間がかかるが、後者は、進め方さえ間違えなければ、すぐにもできた。