「空洞化」を越える、ゴルチエとの協業
1982年、パリで、ファッションデザイナーのジャンポール・ゴルチエ氏と出会った。子会社の樫山フランスが買収したブティック「バスストップ」で、自社で企画してつくった婦人服を売り出そうと、5年前に募集した専属デザイナー。10歳年下の30歳で、新進気鋭、売り出し中だった。
いまでもそうだが、海外で単独店で収益を上げていくには、様々な壁がある。とくに、ファッションに敏感なパリジェンヌが相手では、競争も激しい。「バスストップ」も、先端ファッションを選んでいたが、売れて著名になると独立し、専門店ができてしまう。せっかく育てても抜けていく、という「空洞化」を繰り返していた。
前年の正月、社長に呼ばれた。「もしかすると」と思いながらいくと、描いていた異動先の1つ、海外事業部長を3月付で内示される。あわてて英会話学校へ飛び込み、短期集中型の授業を受け始めた。それまで、海外に縁はない。なぜ「もしかすると」と思ったかと言えば、その前に同期と2人で会社初の中期経営計画を策定し、提案した新設部だったからだ。
樫山(現・オンワード樫山)はアパレル業界ではいち早く海外に子会社をつくり、店を開いた。ただ、複数のブランドが婦人服部と紳士服部に分かれて所属し、ミラノとニューヨークは紳士服事業部長、パリは婦人服事業部長の管轄という縦割りになっていった。そこで「これからは国際化と情報化が最重要。情報システム部と国際事業を一本化した部を、新設するべきだ」とした。社長も頷き、同期と2人で「どちらが、どちらにいくのか?」とささやいた。