なぜ「醤油」から「明太子へ」なのか
東京・六本木のミッドタウンや日本橋のコレド室町で賑わっている店に、「だし」や「つゆ」を売る「茅乃舎(かやのや)」がある。福岡県久山町が本拠の久原本家グループ本社が、全国に20カ所ほど展開する試食や味見もできる店で、久原本家グループ本社の前身、くばらコーポレーションの社長に1996年10月、41歳で就任した。
明治の半ばに、曽祖父が醤油を醸造・販売する久原醤油を開業。3代目当主だった父が急逝し、40代早々で経営の責任を負った。父に約束した自社ブランドの第1号「博多からしめんたいこ」を売り出し、6年が過ぎても、まだ赤字が続いていたときだ。
2代目当主が朝鮮半島や中国大陸に醤油の販路を開き、軌道に乗せた。だが、販路は終戦とともに切れ、後を継いだ父は苦労した。
大学2年のとき、父の命で上京し、機械会社で醤油を小袋に入れる機械の操作を習った。別の醤油業者がその機械を入れ、餃子用の「たれ」をつくり、売り上げを伸ばしていた。だが、父の会社には販売力がないから、機械は月に1度しか使われない。ときに自分が動かして、製品を車に積んで鮨屋を回ったが、「このままでは無理だ」との思いを強めていく。
ある日、父に切り出した。「もう醤油だけではダメだ。うちも袋詰めの『たれ』をつくろう」。父も、同じ思いだった。当時の従業員は6人だけ。2台のトラックに醤油の1升瓶を積み、前掛け姿で家庭を回り、醤油の入った瓶と空き瓶を入れ替える。その繰り返しで、収支をつないでいた。
「たれ」は醤油が主原料。自社には、小袋詰め用の機械もある。しかも、「たれ」をつくっていたのは調味料メーカーで、醤油業者はいない。つくると、納入先の商売仇になるからだ。そんな状況下で、参入を決めた。納入先のブランドにしたOEM方式なら、可能だと判断した。でも、注文は、とれない。どこも、経営者が修業を積んだ店の醤油を、使っていた。
だが、人と人の縁は宝物。薄口醤油を「たれ」用に納めていた食品会社が、餃子をスーパーに本格展開すると聞き、その社長を知っていた父に相談する。父が正月の挨拶にいった際に話すと、「息子を呼べ」と言われ、連絡を受けて飛んでいく。社長はひと言、「やる気はあるのか」と尋ねた。「あります」と即答すると、その場で取引を決めてくれた。