下請けだが、他の醤油業者はやらないから、売り上げは伸びていく。そんななか、工場のパートの女性が、ぽそっ、と言った。「これ、いつか、なくなるのではないですか? 下請けなど、続くのですか?」。実は、成長が続く陰で内心、最も恐れていた点だった。

胸にくすぶっていた「自社ブランドをつくりたい」との思いに、火が点いた。ドレッシングなど、いろいろ試行錯誤を重ね、たどりついたのが福岡名物の明太子。家庭や飲食店など地元で大半が消費されていたのが、75年3月に山陽新幹線が博多まで乗り入れた後、土産需要が増え、贈答用市場の拡大も見込めた。周囲は「何を、いまごろ」と首を傾げたが、もう、それに挑戦するしかなかった。

差別化に、原料のタラコにこだわった。土産用が急増すると、多くの業者は、量を安定的に確保しやすい輸入卵を利用した。でも、希少でも品質のいい北海道産を、使いたい。室蘭や根室などで11月から2月にかけて、産卵のために沖合に上がってくるスケトウダラを、刺し網で獲る。水揚げしたらすぐに卵を取り出し、丸1日、塩水に漬ける。その際、大きさや色などから7段階に分類されるが、なかでも上等なものを選びたい。

だが、北海道には、全く人脈がない。後で触れるが、数年前に縁あって、日本青年会議所(JC)の本部にしばしば出入りした。北海道の各地にも、JCがある。訪ねて回り、話を聞き、人を紹介してもらう。そのなかで、「ここの卵を買おう」と決めた。

「安売りはしない」通販で黒字化

90年4月、「博多からしめんたいこ」を発売した。販売会社の椒房庵(現・久原本家)も設立。漁れたばかりの卵を加工するから、鮮度がよくて美味しい。狙いは、当たった。ただ、コストが高く、赤字が続く。業界で「道楽だ」とまで言われた。でも、ブランドの定着には、安売りはできない。考えに考え、コストを下げて利益を出すのに、お客に直接売ることを思いつく。通信販売だ。

93年4月に福岡県内で始めた通販は、軌道に乗り、「博多からしめんたいこ」は10年目の2000年9月期に、黒字へ転じた。45歳になっていた。

福岡JCには27歳のとき、父に無理やり入らされた。会員は年長で、大きな会社の後継者ばかり。でも、嫌々の入会が、のちに大きな財産となる。なかでも、博多の老舗百貨店の当主の知己を得たのが、大きかった。84年に日本JCの委員長に就いた人で、1年間、鞄持ち兼運転手を務めた。あるとき、「醤油屋でJCは、大変だろう。うちで何か考えてもいいぞ」と言ってくれた。でも、企業規模は月とスッポン。「とんでもありません」と答えたが、明太子に参入したときに1年間、条件を緩くして百貨店に置いてくれた。それが信用を生み、成功につながる。

「多逢勝因(たほうしょういん)」――多くの人と出会い交わることが、物事をいい結果へ導くとの意味で、8世紀ごろ日本へ伝来した『地蔵本願経』にある言葉だ。その前に「縁尋機妙(えんじんきみょう)」とあり、縁は縁を呼び、言うに言われぬものだ、とも説く。出会いと縁を大切にして事業を開花させた河邉流は、この教えと重なる。