国内外で街を歩き「感性」を磨く
若いころは、ファッション現場から遠かった。だが、海外事業部へいってから、国内外どこへいっても街を歩き、店をのぞき、感性を磨いた。代官山の出店でいろいろとこだわったのは、そんな年月でファッション界が「知っている」から「好きだ」となり、さらに「楽しい」になっていたからだ。
「好之者、不如樂之者」(之を好む者は、之を樂しむ者に如かず)──何事も、それを好むだけの人よりは、それを楽しむ人のほうが上だとの意味で、中国の古典『論語』にある言葉。その前には「知之者、不如好之者」とあり、それを知っているというだけの人よりは、それを好む人には及ばない、ともある。ファッション界を知るところから始まり、好きになり、楽しんで取り組むようになった廣内流は、この教えと重なる。
1942年11月、高知市で生まれる。両親と兄1人、弟1人、姉2人、妹1人の8人家族。父は終戦時、満州で鉄道会社に勤めていて、ソ連軍に抑留されたが、解放されて帰国し、知人と会社を設立した。高知の豊かな森林を活用して炭をつくり、粉にして、薬の浄化剤向けに薬品メーカーに売っていた。だが、小学校5年のときに急死。母は会社の株式を売ってアパートを建て、収入を子どもたちの教育費などに充てた。
地元の小・中学校から私立土佐高校へ進み、大学は校歌「都の西北」が好きだった早大の法学部。就職は母のことも考え、初任給が高い企業を探し、最後に残ったアパレル2社のうち樫山を選ぶ。
65年4月に入社。紳士服の営業が希望だったが、経理部に配属される。新入社員は、みんなより1時間早く出社し、雑巾がけや灰皿の掃除をやらされた時代。担当した売掛金の管理では、商業高校を出た女性陣にあれこれ教わった。
次に買掛金の支払いと財務諸表の管理を担当し、29歳で課長になる。経理部に通算12年となったある日、社長に誘われて飲んだ。初対面で上気し、何を話したか覚えていないが、まもなく紳士服部の計数管理課長の辞令が出た。「面接」だったようで、数字に強い、と見込んでくれたらしい。
当時は、婦人服部などの事業部が、仕入れから販売まですべての権限を持ち、収益も管理した。そこの課長に「よそ者」から就くのは初めてで、低姿勢を貫く。同時に、手元に集まる計数を分析し、担当者らに適切な助言を続ける。数字は嘘をつかないから、よそ者扱いは消えていく。次の婦人服部の計数管理課長でも、同様だ。
97年3月、社長に就任。でも、国内外を巡り、現地社員らから最新情報を聞き、街の店をのぞくことは続く。会長となり、後継者が病に倒れて復帰した後も、再び会長になってからも、それは変わらない。そしていま、頭の中を大きく占めているのが、後編で触れる代官山につくる新たな情報発信拠点。のぞいてみる個所が、食や文化の世界へと広がっている。
1942年、高知県生まれ。65年早稲田大学法学部卒業、樫山(現・オンワード樫山)入社。85年取締役。91年常務、94年専務、97年社長、2005年会長。07年持ち株会社「オンワードホールディングス」を設立。11年会長兼社長。15年より現職。