海外事業部長に就くと、すぐにミラノ、ローマ、パリ、ニューヨークの4拠点を巡る。でも、どこでも、話をしたこともない面々ばかり。彼らも、他の拠点の人間を知らず、一元化するといっても簡単ではない。そこで、前例のない試みを決断する。81年秋、各拠点から約20人を、パリに集めた。

ホテルの会議室で、何をやりたいと思っているのか、話させてみる。すると、現場はけっこう燃えていて、次々に面白い案が出る。いろいろな実態を知ることもできたし、知るほどに興味が深まっていく。自分たちでブランドを立ち上げよう、との機運も高まった。こうした会合は「インターナショナルミーティング」と呼び、いまも年1回、開いている。

ゴルチエ氏とはライセンス契約を結び、世界のファッション界が注目するパリコレクションへの出展も支援した。出展は名を売るためではダメで、必ず注文を取り、現地で生地を買い、デザイナーが型をおこし、工場をみつけてつくって、販売しなくてはならない。全く知らない世界だ。しかも、樫山フランスの小さな店が世界のアパレル業界に挑戦する形だから、大変だ。でも、面白い。それを、現地の社員たちと苦労して、やり遂げた。やってみると、面白いだけでなく、実に楽しめた。

次に社長が出した課題は、日本での生産。85年3月にゴルチエ事業本部長となり、北陸などの繊維会社を回り、ライセンスの供与先をみつけて、全国の百貨店などで売っていく。ここでも、自社であまり例がなかったことに、踏み出した。日本でつくるなら、自分の手でも売りたいと、都内で店を出す候補地を探す。

渋谷に近い代官山に、35坪の土地がみつかる。ビルを建て、86年8月に「ジャンポール・ゴルチエショップ」(現・グレースコンチネンタル代官山本店)を開いた。敷地が狭いから、1階だけでなく地下1階にも展開した。最もこだわったのは、地下へ降りていく中央の階段だ。建築業者は階段の穴を直径1.5メートルにして、1階フロアを広めにとった。

だが、気に入らない。降り口が小さくては、地下の商品群があまり目に入らず、迫力がない。それではファッションにこだわりを持ち、「ゴルチエ」が好きで、わざわざきてくれる人に応えられないし、ブランドイメージも損なわれる。1階の展示面積を犠牲にしても、やはり地下売り場を打ち出したい。そう考えて、できていた穴の直径を2倍に広げ、階段を螺旋状にして、地下の品々がよくみえるようにつくり直させた。前年に42歳で取締役になっていた。