歓声と拍手に湧く石巻の「復興宣言」
石巻で5年過ごした後、徳島県・小松島工場と福島県・勿来工場で、生産ラインの責任者である工務部長を歴任した。小松島は旧山陽国策の工場で、2002年に勿来から戻って工場長にもなる。
合併した企業にはよくあるが、拠点の再編成で、軋轢が生じやすい。日本製紙も例外ではなく、製品が重なる工場間の摩擦が続く。でも、04年に取締役となり、本社の経営企画部長として進めた国内事業の再編では、個々の工場の歴史などではなく、あくまで競争力と将来性を基準に峻別する。
小松島の紙の生産撤退は、社長になった3カ月後の08年9月末。同時に、旧十條の富山県・伏木工場も閉めた。山陽国策の出身者から「うちの工場ばかり閉める」との不満は出ず、むしろ協力してくれた。やはり「徳不孤」だ。
東日本大震災が発生したとき、東京・竹橋の本社ビル16階の社長室にいて、普段の地震とは全く違う大きな揺れを感じた。ようやく収まり、震源地が東北らしいと知ると、宮城県の石巻と岩沼にある工場の情報収集を指示した。
だが、石巻には、固定電話も携帯電話もつながらない。テレビをみていたら、大津波が三陸を襲った。やがて、情報が入り始め、従業員は無事らしいと聞き、安堵した。だが、設備が冠水し、がれきに埋まった、という。「壊滅」という言葉も飛んだ。だが、胸中は「まずは、自分の目で工場をみよう。閉鎖かどうか考えるのは、まだ早い」と、冷静だった。
石巻は雑誌や文庫など出版用紙の主力工場で、止まれば、日本の出版界を危うくする。全国の工場の状況を確認し、可能な限りの増産を指示するとともに、同業他社に依頼して当面は代わりに供給してもらうように頼んでいく。
そして、3月26日に石巻を訪ねた。大変な状況の現地に遠慮していたが、士気が落ちていく現場を放っておけない。緊急車両の登録をした車で前夜に東京を発ち、途中で1泊し、石巻に入る。避難所がある日和山の現地対策本部に着くと、すぐに工場へ向かった。目をそむけたくなる光景が続くが、じっと、観て回る。40代の勤務で裏まで巡回したから、どこに何があり、再生にはどこをどうすればいいか、頭に浮かぶ。
日和山へ戻ると、幾重にも囲んだ従業員たちに告げた。「これから日本製紙が全力を挙げ、石巻工場を立て直す」。一瞬、沈黙が支配した後、歓声と拍手が湧く。石巻工場の復興宣言だ。すでに、取引銀行と協議も進めていた。歓声と拍手は「徳不孤」の証だった。
7月、ボイラーに電気が通じ、8月には火が入り、煙突から白い蒸気が流れ出た。市民から、激励のメールが届く。そして、9月に、文庫本や単行本の本文用紙を生み出すラインが再稼働。驚くべき早さは「必有隣」が生んだ。
工場は、単に元へ戻すのではなく、新しい競争力を付けた姿に変えていく。電子書籍などデジタル時代への対応や海外展開など、いくつもの課題が視野にある。嵐の中に居続けた社長在任6年が終わり、バトンは後継者に託した。
1949年、熊本県生まれ。74年熊本大学大学院工学研究科修了、十條製紙(現・日本製紙)入社。93年十條製紙は山陽国策パルプと合併、「日本製紙」に社名変更。92年石巻工場技術室次長、2002年小松島工場長、04年取締役経営企画部長、06年常務、08年社長。14年より現職。