3月11日で、東日本大震災発生から6年となる。震災により、妻や長男、両親、公設第二秘書までを失った衆議院議員(民進党)の黄川田徹氏に取材を行った。遺族として、国会議員として揺れ動くその思いに迫った。
国会議員としてみると長い6年間
――この6年間を振り返えられて、いかがでしょうか?
遺族としては、6年を長いと思ったことは1度もありません。月日が流れるのは早いとあらためて感じます。立場を変えて、被災地(岩手県陸前高田市)の国会議員としてみると、長い6年になってしまったと思っています。
震災発生時は、民主党が政権を担っていました。その後、自民党・公明党が与党となり、2度の衆議院選挙が行われました。民主党が政権をとったときは、衆議院で300議席を超えていました。その後、200人以上の議席を失ったのです。一方で、自民党の側もそれに近いほどに入れ替わっています。今や、議員の顔ぶれが大きく変わっています。ここまで議員が入れ替わると、復興の話をほかの議員としても臨場感がないと私は感じるのです。
国会で私は政府・与党に質問をしますが、その答弁などからもやはり、自分たちが復興を行政の面から支えるんだという意識が風化しつつあると感じざるを得ない。議員や役人として当時を知る人が少なくなっているからでしょう。
復興を支えるという意識が希薄になり、風化しているのは、役人からも感じられます。震災発生の後、復興庁がつくられました。私は野田内閣(第三次改造内閣)で復興副大臣をしていたこともあり、復興庁の職員とよく話し合いをしました。あの頃、私たちは辛さや厳しさを肌身で感じていました。
しかし、その後、職員の多くは人事異動などでほかの職場に移っていきました。私がよくお世話になった職員の中には、定年で退職された方もいます。
最近、復興庁に来た職員の中には、被災地でつくられている道路を見て、一般の公共事業の一環と思い込んでいる人もいるようです。現在に至るまでのいきさつを正確に知らない人には、復興のための工事には見えないのかもしれません。
岩手県の陸前高田市や大槌町、山田町などでは今も、道路や盛土の工事のために土砂を運ぶダンプカーが走っています。目の前のダンプカーと盛土だけを見る限り、「あれは企業誘致や、工場用地のための造成ですか?」と思われるかもしれません。
「この地に町を復興するぞ」という意識も薄れ、震災発生直後の、あの強い思いは、役人たちからもしだいに消えているのかもしれません。