日本の災害復興能力は著しく衰えた
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は死者・行方不明者が10万人を超える激甚災害だった。復興の陣頭に立ったのは時の内務大臣、後藤新平である。後藤は「遷都はしない」「復興費用は30億円を要する(当時の国家予算の2倍超)」「欧米の最新の都市計画を採用する」「地主に対しては断固たる態度で臨む」という基本方針を一夜のうちに固めて、江戸時代の街並みが色濃く残る東京を近代的な防災都市に生まれ変わらせるための復興計画をプランニングした。
復興予算が大幅に縮小されるなど、守旧派の頑強な抵抗に遭って構想通りには運ばなかったが、後藤が思い描いた復興構想の断片は都心を縦横に走る幹線道路や公園施設などに今も息衝いている。破壊された港湾埠頭に震災瓦礫を埋め立てて日本初の海浜公園である横浜の山下公園を造ったのも後藤の大胆なアイデアで、当時の日本の災害復興力は相当なものだったと思う。
95年1月17日の阪神・淡路大震災のときは、私も被災地に何度も足を運んで自分の目で確認したが、復興のスピードは思いのほか速かった。1年8カ月後には阪神高速道路が全線復旧し、2年4カ月後には港湾施設も完全復旧して、街並みもどんどん旧情復帰していった。阪神・淡路の場合、国の復興計画などあてにしないで自力復興していく関西人のエネルギーのようなものを感じた。国や自治体が復興計画を下手に仕切らなかったことが、かえってよかったのかもしれない。
それから16年が経過した2011年3月11日、東日本大震災が起きた。阪神・淡路大震災とは災害の規模も範囲も地域性も異なるので復興のスピードを単純比較しても仕方ないのだが、それでもこの4年間の復興の進捗状況を見ていると、日本の災害復興能力は著しく衰えたように思えてならない。あるいは国や自治体が仕切ると復興が著しく滞るということが露呈した4年間だったように感じる。
当初の47万人から半減したとはいえ、いまだに23万人近くが避難生活を強いられて、仮設住宅の入居者はまだ8万人いる。阪神・淡路では、4年半で仮設住宅の入居者はほとんどいなくなったのだ。