大学院の研究より「現場」で知る数々

1949年12月、熊本市で生まれる。父は日本電電公社(現・NTT)の事務職で電話局に勤め、母と姉2人の5人家族。近くの小学校に入ったが、父の転勤で県内を3カ所巡り、中学2年のときに熊本市へ戻り、県立熊本高校へ。大学は、化学産業に未来を感じ、熊本大学工学部の工業化学科を選ぶ。大学院の工学研究科へ進み、所属した研究室のテーマはプラスチックの構造物性の研究だ。

74年春に修士課程を修了。学部長が求人のある企業を挙げて、成績順に選んでいた時代で、「お前から選べ」と言われた。九州に、できれば熊本県に工場があるところなら、いつか地元にくる機会もあるだろう思い、八代市に工場を持つ十條製紙に決める。

同4月に入社し、研修を受けた後、5月に配属が決まる。だいたいは出身地と反対にいかされていたので、「北海道か東北か」と思っていたら、八代工場の第二製造課一級操業調査係と告げられた。第二製造課は木材からパルプをつくる部門で、操業調査係は操業のスタッフ。チップを大釜で煮るときに入れるアルカリ薬品を、残留物から取り出して再利用する部署に、3交代勤務で入る。

大学院で研究したこととは、全く関係ない。修士でも、会社ではそういう現場に入れられて、たくさんのことを一から教わる。カルチャーショックだったけど、「現場」が体に染み込んで、その後ずっと、役立った。

2つ目の配属先は東京・王子の研究所で、コピー用紙の物性試験を受け持つ。当時の用紙は、どのメーカーの複写機でも、同じようにきれいにコピーできたわけではない。複写機に特性があり、専用的な用紙をつくったが、OA化の進展をにらむと、どれにでも使える紙をつくる必要がある。十條製紙は後発で、追いつき・追い越せと、いろいろな製法を追求した。

これも、それまでの仕事とは縁のない世界だが、「大学院までいったのだから、化学的な基礎知識はあるだろう」とみなされた。でも、先を急がず、無理に力を入れず、「勿助長也」を守る。それこそが、目標に最も早く到達する道だ、と貫く。こうした経験がドイツ駐在をもたらし、冒頭の合弁会社の調整役につながっていく。

この後、石巻工場を皮切りに12年間、業界再編の嵐が吹きつけるなか、国内の工場勤務が続く。東日本大震災と併せて次号で触れるが、上司に尋ねられて答えた「製造会社だから、やっぱり工場など生産部門でキャリアを積みたい」との希望が、実現する。

08年6月に社長就任。年初に発覚したコピー用紙に使う古紙再生パルプの配合比率の「偽装表示」などで、経営陣の刷新が決まり、58歳で、急きょ登板した。収益への打撃は大きくなかったが、社会的信頼は低下した。その回復に努めている最中に、世界経済を揺さぶったリーマンショックが勃発。さらに東日本大震災。在任6年は、まれにみる厳しい状況が続いた。

それでも、信頼の回復、経営基盤の強化、壊滅的な被災からの復興に新たな進路の選択と、その都度、目標に集中。「勿助長也」を守り抜く。

日本製紙会長 芳賀 義雄(はが・よしお)
1949年、熊本県生まれ。74年熊本大学大学院工学研究科修了、十條製紙(現・日本製紙)入社。93年十條製紙は山陽国策パルプと合併、「日本製紙」に社名変更。92年石巻工場技術室次長、2002年小松島工場長、04年取締役経営企画部長、06年常務、08年社長。14年より現職。
(書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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