勝負強い監督、接戦に弱い監督……、監督の発想は、すべて現役時代のポジションから湧き出ている。歴代監督をポジション別に徹底分析する。
親友・広岡監督との史上最高の日本シリーズ
投手出身監督が自己中心的発想に陥るのは、現役時代、グラウンドでいちばん高いところにあるマウンドで、球場のスポットライトを一身に浴びるという立地条件にあったことは、すでに星野仙一や金田正一の回で詳述した。
しかし、投手出身でありながら、自己中心性から脱却した監督が1人だけいる。2006年に亡くなった藤田元司である。彼だけが複数回(2回)日本一に輝き、投手出身監督の歴史を変えた。短期決戦の日本シリーズで辛酸を嘗め、自らの考えを改め、監督として大きく成長したからにほかならない。
同じ巨人で釜の飯を食った親友、広岡達朗監督率いる西武と激突した日本シリーズは、「史上最高の日本シリーズ」と評され、時を越え、現在に語り継がれている。
1983年11月5日。西武球場。藤田巨人が広岡西武に3勝2敗と王手をかけ、迎えた日本シリーズ第6戦は、試合終盤になって、もつれにもつれた。
NHK朝の連続ドラマ「おしん」が空前の視聴率を記録し、大ブームになっていた年である。
巨人が西武に1対2とリードされ、追い込まれた9回表。二死一、二塁から、サウスポーにめっぽう強い6番・中畑清(一塁手。現・DeNA監督)が、杉本正のシュートをとらえ、右中間に三塁打。二者を迎え入れ、土壇場で3対2とひっくり返し、巨人ベンチはお祭り騒ぎになった。
このとき、監督の藤田は、
「勝った」
と思った。
ブルペンの中村稔投手コーチからは、
「江川(卓)も、西本(聖)も、仕上がっています」
という報告が届いていた。
だが、9回裏を無失点に抑えれば日本一だけに、藤田は迷った。
「江川か、それとも西本か……」
そのとき、助監督の王貞治が進言した。
「監督。ここまで来たら、西本でいきましょうよ。西本しかいないですよ」
藤田はしばし瞑想し、頷いた。
「よおし、ワンちゃん、西本でいこう」