「所沢に返ればうちが必ず勝つ」

藤田巨人対広岡西武の日本シリーズが、開幕2連戦で1勝1敗のタイになったときのことである。広岡は後楽園シリーズを前に、選手たちに吼えた。

「後楽園では1つ勝てばいい。所沢へ帰れば、うちが勝つ。4勝3敗で必ず勝つ」

日本シリーズを、あえて日本選手権(正式名称は「日本選手権シリーズ」)と呼ぶ広岡は、「昭和33年(1958年)、西鉄との日本選手権が忘れられない」と語ったことがある。

この年のシリーズ、広岡は一番打者を務め、第1戦はホームランを含む3安打を放ち、9対2と大勝した。第3戦は鉄腕・稲尾和久から値千金のタイムリー三塁打をかっ飛ばし、1対0で辛勝。巨人3連勝の立役者になった。

シリーズMVP(最高殊勲選手)に贈られるトヨペットクラウンに引っかけて、「広岡はハンドルに手をかけた」といわれた。

だが、3連敗と追い込まれた西鉄監督の三原脩は、こんな名言を吐いた。

「日本シリーズは3つ負けられる。まだクビの皮一枚つながっている」

第4戦を迎えた三原・西鉄は、福岡の平和台球場に降った未明の小雨を理由に、午前6時に早々と中止順延を決定。休息を得て、翌日から稲尾が4連投で4連勝。西鉄は巨人をうっちゃったのである。

日本シリーズは3敗まで許される。どこで3つ捨てるか。その代わり、どこで4つ抑えるか。それが大局観だ。全試合勝ちにいくから、重心が高くなり、足もとをすくわれる。

「日本シリーズは3つ負けられる」

“魔術師”三原のセリフは、広岡の脳裏にしっかり刻まれたのである。

藤田と広岡のGL決戦は、「新・巌流島の決闘」と呼ばれた。1958年の水原巨人と三原西鉄の「巌流島の決闘」から25年の歳月が流れていた。

第6戦、4対3でサヨナラ勝ちした広岡は、藤田に同情する余裕のコメントを残している。

「ガッツで働いた西本を胴上げ投手にしたかったのだろう。藤田は人情家だからな」

藤田は西本と同じ愛媛県出身。瀬戸内海に浮かぶ小島、四阪島(しさかじま)で生まれている。出身校は藤田が西条北高で、西本は松山商。両校の戦いは、かつて愛媛県の早慶戦と呼ばれていた。