勝負強い監督、接戦に弱い監督……、監督の発想は、すべて現役時代のポジションから湧き出ている。歴代監督をポジション別に徹底分析する。
策士、曲者が多い二遊間出身監督
巨人V9後、日本一になった監督の出身ポジションは、捕手の13回に次ぎ二遊間が9回と二番目に多い。
いうまでもなく、二塁手と遊撃手は内野の要だが、セールスポイントがちがう。遊撃手は三遊間最深部のゴロを捕球し、一塁へ大遠投する際の鉄砲肩が売りものだが、二塁手の最大の見せ場はダブルプレーや中継プレー。相手打者の打球傾向や、脚力などを考慮し、的確な守備位置を求められるポジションだけに、策士、曲者が多い。
典型的な監督を挙げるとすると、仰木彬になるだろう。
わたしがいまも強烈な印象を残しているのは、1989年9月28日、近鉄対西武戦が行われる予定だった藤井寺球場の一件である。
対西武4連戦の天王山に1勝2敗と負け越した近鉄監督の仰木は、昼前後に大阪地方に降った小雨を理由に球団に中止を懇願したのである。
少し説明が必要かもしれない。
仰木は、近鉄の監督に就任し、2年目だった。前年のペナントレースは、森西武とのマッチレースになり、最後の最後までもつれた。1988年10月19日、川崎球場で行われたロッテとのダブルヘッダーは、「10・19」と呼ばれ、野球ファンに語り継がれている。
近鉄が連勝すれば近鉄の優勝。近鉄が1試合でも負けるか引き分ければ西武が優勝という瀬戸際の2試合だった。近鉄は第1試合こそ4対3で勝利したが、第2試合は延長10回、4対4で引き分けた。
近鉄と西武はゲーム差なしながら、勝率は西武が上回った。近鉄が5割8分7厘に対し、西武が5割8分9厘。仰木近鉄は2厘差で涙を呑んだのである。
仰木は浪花節の指揮官だった。
「結果は残念なものだが、選手はよくやった。それが涙が出るほどうれしい。私自身も感動している」
そのシーズンの翌年だけに、仰木はなんとしても森西武を倒し、パ・リーグを制覇したいと思っていた。
9月25日からの対西武4連戦は、2位・近鉄が首位・西武に2・5ゲーム差に迫り、優勝争いの最大の山場であった。
両チームがぶつかる直前の9月24日終了時点の勝率は、2位・近鉄が5割6分5厘、首位・西武が5割8分9厘、3位・オリックスが5割6分0厘。