勝負強い監督、接戦に弱い監督……、監督の発想は、すべて現役時代のポジションから湧き出ている。歴代監督をポジション別に徹底分析する。

空前絶後400勝投手の傍若無人

典型的な投手出身監督を星野仙一とするなら、この人はさしずめ投手人間の“元祖”といっていいだろう。空前絶後の400勝投手、金田正一(国鉄、巨人)。愛称「カネやん」である。

なにしろ、現役時代から傍若無人。監督が交代を告げる前に降板したことはおろか、監督が交代を告げる前にマウンドにのぼったこともあった。400勝のうち、リリーフでの勝ち星が132勝あるが、後者のようなケースは枚挙に遑がない。

具体的な例を挙げよう。1960年9月30日。国鉄対中日戦(後楽園球場)。観客数、約2000人。

国鉄は前日に金田が先発し、4安打8三振で完封勝利を収めたため、この日はプロ入り3年目の右腕・島谷勇雄(盈進商)が先発。同年、21試合に登板し、防御率1.41という成績を残しただけに、上々の立ち上がり。味方が2回に2点を入れ、4回まで中日打線を2安打0点に抑え、プロ入り初勝利も夢ではなくなっていた。

ところが、島谷が5回表のマウンドに向かおうとすると、金田がブルペンからすっ飛んできた。金田は監督の宇野光雄の姿がベンチに見えず、頭に血が上り、手にしていたボールをグラウンドに叩きつけた。10年連続20勝という大記録まで、あと1勝に迫っていたからにほかならない。

初勝利をめざし、マウンドにのぼった島谷だが、先頭の6番・横山昌弘(左翼手)に左中間最深部に運ばれ、三塁打。それを見た金田は、白線をまたぎ、マウンドに向かった。

宇野監督は慌てて球審にリリーフ金田を告げ、島谷は交代を告げられる前にマウンドを降りていた。なにしろ、金田が国鉄時代に挙げた353勝は、チーム勝利数の42パーセント。誰も文句が言えなかったのである。

結局、宇野はこの年限りで国鉄を追われ、島谷はその後も勝ち星を挙げることなく、3年後に引退した。