勝負強い監督、接戦に弱い監督……、監督の発想は、すべて現役時代のポジションから湧き出ている。歴代監督をポジション別に徹底分析する。

「癖盗みの天才」から学んだスパイ野球

1975年から3年連続日本シリーズを制した阪急の上田利治監督が、現役時代、広島の捕手だったことを知る人は少なかろう。

実働3年で、出場試合数は121。通算成績は、打率2割1分8厘、本塁打2、打点17。肩を痛め、捕手としては大成できなかったが、指導者に転じ、持ち前の頭脳をいかんなく発揮した。なにしろ、関西大学法学部の入学試験にトップで合格。法学部を選んだのは、叔父が徳島県弁護士会の副会長で、自らも弁護士を志していたからであった。

広島のコーチ就任後、上田はデール・カーネギーの『人を動かす』や『孫子の兵法』などを貪り読み、リーダーシップを学んだ。衣笠祥雄(平安高卒)や三村敏之(広島商卒)を育てる一方、オフに自費で大リーグを視察する姿勢などが評価され、西本幸雄監督から声がかかり、阪急に入団。「癖盗みの天才」といわれたダリル・スペンサーと出会い、“スパイ野球”を体得するのである。

そんな上田にとって、会心の日本シリーズは、監督就任3年目の1976年。相手は長嶋巨人であった。

第8回(http://president.jp/articles/-/12622)で記したように、日本シリーズ第6戦、7点差を引っくり返し、8対7で勝利した長嶋は、興奮して叫んだ。

「巨人だ。巨人だ。これが巨人だ……」

それから先のことを、上田に取材したのは、2012年暮れだった。

「帰りのバスの中、阪急の選手たちは元気がなく、いわゆる“シュン太郎”やった。だから、宿舎に着いたら、緊急ミーティングを開いた。麻雀をしたいやつは麻雀をやれ、飲みたいやつは銀座でもどこへでも行け。その代わり、明朝9時には戦闘態勢を整えてきてくれ、といいました。そして、テレビや新聞を見るなとだけ注文を付けた。逆王手をかけられ、巨人びいきの報道になるのは目に見えていたからね。ところが、一人だけ平然とテレビを見て、新聞を読んだ男がおる。第7戦先発のダチ(足立光宏)やった」

第7戦、両軍の先発は、阪急がアンダースローの足立に対し、巨人は左腕のクライド・ライト。後楽園球場に詰めかけた観客は4万5000人。そのほとんどが巨人ファンだったが、何事にも動じない強心臓の足立は、『騒げ、もっと騒げ』と叫びながら投げつづけた。結局、足立は巨人打線を5安打2失点(自責点1)に抑え、完投することになる。