勝負強い監督、接戦に弱い監督……、監督の発想は、すべて現役時代のポジションから湧き出ている。歴代監督をポジション別に徹底分析する。
悲運という言葉が似合う指揮官
過去、日本シリーズは64年の歴史を刻んだが、西本幸雄ほど“悲運”という言葉が似合う指揮官もいないであろう。なにしろ、8回も日本シリーズに出場しながら、1回も日本一になれなかった監督なのだから。
西本は現役時代、毎日オリオンズ(現・ロッテ)に在籍。6年間の通算成績は打率2割4分4厘、本塁打6、打点99。目立った成績は残していないが、一塁手出身(404試合出場)らしく、監督に転じてから、攻撃型のチームをつくりあげている。
「いてまえ打線」
近鉄・強力打線の代名詞が生まれた年こそ、西本がもっとも大きな悲運に見舞われた年であった。
1979年11月4日。近鉄対広島の日本シリーズ第7戦は、3対4と近鉄が広島に1点リードされ、9回裏に入った。マウンドは、広島の“守護神”江夏豊。7回裏一死一塁という場面で登板し、以後、ヒットを一本も許していなかった。
このまま9回裏も、「いてまえ打線」を簡単に料理するかに見えたが、先頭打者の6番・羽田耕一(三塁手)がストレートをセンター前に運び、大阪球場は風雲急を告げる。
羽田が出塁すると、西本はベンチを勢いよく飛び出し、審判に告げた。
「代走、藤瀬」
藤瀬史朗は大阪体育大時代に陸上部に所属。道で偶然拾った新聞で、近鉄入団テストを知り、抜きん出た足の速さでテストに合格した選手だった。入団2年目の1977年、二軍で走りまくっていた藤瀬を、西本が目に留め、一軍に引き上げた。すると、藤瀬はダイヤモンドを風のように走り回り、“近鉄特急”というニックネームをちょうだいした。
わたしが兵庫県宝塚市に住む西本を訪ねたのは、試合から10年後のことだった。
「藤瀬は“走り屋”でね。相手が警戒しておっても、なおかつその上をいく走りでセーフになる選手やった」
2ボール1ストライクからの4球目、藤瀬がスタートを切った。投球はボール。広島の捕手、水沼四郎は素早く二塁に投げたが、ベース手前でワンバウンド。センターに転がり、俊足の藤瀬は一気に三塁を陥れた。
無死三塁という同点のチャンスが訪れ、大阪球場の一塁側スタンドに陣取った近鉄ファンは騒然となった。霧雨の中、紙吹雪が舞い。蜜柑まで投げ込まれた。
6番クリス・アーノルド(二塁手)が四球で歩くと、西本は藤瀬につづけとばかり、代走に足の速い吹石徳一を送った。現在、女優として活躍する吹石一恵の父である。
7番・平野光泰(中堅手)の3球目、吹石がスタート。捕手の水沼は三塁ランナー藤瀬の本塁突入を警戒し、二塁へ送球しなかった。
無死二、三塁になり、広島の古葉竹識監督は、平野の敬遠を指示。無死満塁になった。
西本が動く。9番・山口哲治(投手)の打席で、代打・佐々木恭介。「左殺し」という異名を取っており、近鉄にとっては、とっておきの代打だった。