「3つのストライクは全部振れ」

西本は佐々木と次打者の1番・石渡茂(遊撃手)に同じアドバイスを与えている。

「3つのストライクは全部振れ」

積極打法を指示した理由は、こうである。

「江夏ほどのピッチャーになると、追い込まれたカウントでは打撃を崩されやすい。あの場面では、三振がいちばん困る。だから、3つのストライクは全部振れ、といったんだ」

3球目、佐々木が内角のストレートを強振すると、三塁線へ鋭い打球が飛んだ。三塁手の三村敏之が横っ跳びし、グラブを差し出したが、およばなかった。

瞬間、広島監督の古葉は心臓が縮み上がったが、判定はファウル。胸を撫で下ろした。

反対に、西本はいきり立った。

「えっ、あれがファウルか」

西本の目には完全にフェアに見えた。審判に抗議しようかと思ったが、三塁コーチャーの仰木彬がクレームを付けない。現役時代、内野手として数多くの打球を見ているだけに、フェアかファウルかの判断は的確なはずだった。

「2角ではなく、1角だったのか」

西本は歯ぎしりした。

三塁ベース(一、二塁ベースも同じ)の大きさは15インチ(38.1センチ)四方。西本によると、野球規則では、打球が2角を通ればフェアだが、1角ではファウル。してみると、打球はセンチではなくミリのちがいだったのかもしれない。

西本は晩年になってからも、「あれはフェアだ」と信じていた。もしフェアなら、2者生還し、近鉄が5対4でサヨナラ勝ちを収めていたはずだったからである。

6球目、江夏が内角低めに食い込む鋭いカーブを投じ、佐々木は空振り三振。

次打者の石渡が打席に入ったとき、西本の頭には、スクイズという考えは1%もなかった。佐々木同様、

「ストライクは3つとも振れ」とアドバイスしていたからである。

石渡への初球、江夏は外から入るカーブを投じた。

「しめた!」

ベンチの西本は小躍りしたが、石渡のバットはピクリとも動かなかった。ストライク。 西本は唇を噛んだ。

「石渡はカーブにしゃがんでしまった。高いと思ったんだね。ストライクは必ず打つつもりなら、バットのヘッドが出たはずなんだが」

西本は自分の意図が石渡に伝わっていないと感じた。それまではスクイズを微塵も考えなかったが、心境に変化が訪れる。2ストライクになったら、ベンチはただ打たすしかなくなる。江夏の球はバントしにくいというほど速いわけではない。