「ノンフィクションを書き始めて30年。私もだいぶ古狸になってきたから、自分の仕事の意味を見つめなおしておきたくなったのかもしれませんね」
そう言ってにこやかに笑う後藤正治さんは、本書の執筆にあたり自らの胸に残る18の作品をあらためて読んだ。
終戦直後の広島を舞台に枕崎台風と闘った気象台員の群像を描く柳田邦男著『空白の天気図』。沢木耕太郎氏の代表作のひとつ『一瞬の夏』、日本の調査報道の礎を築いた『田中角栄研究』(立花隆著)。『覇者の誤算』(立石泰則著)から『百万回の永訣』(柳原和子著)、今は小説家としても活躍する大崎善生氏のデビュー作『聖の青春』まで、経済ノンフィクション、人物評伝、闘病記と幅広いジャンルの作品が俎上に載せられていく。
「書き方や問題意識はすべて異なるけれど、取材と執筆を限界までやり遂げたことがひしひしと伝わってくる。同じ書き手として『よくぞ書きあげた』と胸をうたれた作品ばかりを選びました」と後藤さんは言う。
「取材の過程で仮説が何度も覆され、少しずつ対象の本質に近づいていく。それはノンフィクションの醍醐味であると同時に、とても苦しい作業でもあるわけです。その中で粘りに粘り、作品にピリオドを打つ瞬間を後ろへ後ろへと延ばしていった作品に触れるとき、力をもらったような気持ちになるんですね」
京都大学農学部を卒業後、会社員を経て30代でノンフィクション作家となった後藤さんは、これまで『リターンマッチ』や『スカウト』といったスポーツノンフィクションを筆頭に、自身の関心領域であった医療問題など幅広い分野で数々の名作を描いてきた。
「若い頃は事実を扱うというノンフィクションの制限に、もどかしさを感じたこともあった」と振り返りながら、「でも、いま30年間続けてきて思うのは、だからこそノンフィクションは力を持てるのだという逆説です」と語る。事実を描くという制約があるからこそ、書き手は工夫や努力を重ね、対象を解きほぐそうとする。その過程が作品の味わいになっていくことが、ノンフィクションを書くこと、そして読むことの醍醐味なのではないか――と。
「ノンフィクションという分野は、確かに文芸やジャーナリズムの中の小さな道にすぎないかもしれない。でも、小さな道にはそれゆえの大切さがある。この18の一級の作品をあらためて読み直したいま、私はそのことを再確認させてもらった気持ちでいます」