「小学生くらいの子供たちが最後まで読み通せる小説にしたい。この本を書く上で、とりわけ意識したのがそのことでした」
自身初の短篇小説集である本書について沢木耕太郎さんは言う。収録されているのは雑誌「yom yom」に掲載された9篇の物語。どこか同じ雰囲気を持つ街で暮らす9人の主人公は、それぞれ言葉にならない痛みを胸に抱えている。そんな彼らの人生にふと訪れた一瞬の出会いが、静かな筆致で描かれる。
前述のように読者を明確に想定したのは、ノンフィクションやエッセイ、フィクションというジャンルを超えて初めてのことだった、と沢木さんは続ける。
「思い浮かべたのは『深夜特急』の読者です。普通、一冊の本は読者とともに歳を取っていくけれど、あの本は例外的に新しい若い読者を獲得し続けました。それを不思議に感じる中で思ったんです。彼らは『深夜特急』を読む前に、どんな本を読んできたのだろうか。ならば、いつか『深夜特急』を読んでくれるかもしれない子供たちに向けて――言い換えれば以前に『深夜特急』を読んだ人たちの子供時代に向けて、物語を書くことはできないだろうか、と」
たまたまバスに乗り合わせたかつての友人、公園で佇む迷子の少女、路上の傷ついた鳩……。本書の主人公たちは、あるとき交錯するように体験した一つの出会いによって、ほんの少しだけ再生していくかに見える。
もちろん――と沢木さんは話す。そこに描かれる微細な感情の揺れや哀しみは、小さな子供たちにはまだ分からない部分も多いはずだ。しかしいつか彼らが大人になり、本書を読み返すことがあったとき、その物語から何がしかの意味をいま一度汲み取ることがあるかもしれない。
「だからこそ、一つでも二つでも心が震える個所があるようなものにしたい。そんな気持ちで一篇一篇を書いていったんです」
それは、これまで多くのノンフィクション作品を著してきた沢木さんにとって、一人の書き手としての「挑戦」でもあった。
「人間の心の微細な部分は、取材対象との関係性の中で描かれるノンフィクションではなかなか表現できないものです。例えば『檀』で僕は一人の人間の感情の全体を描くことに挑戦しました。あるところまでは達成できたと感じたけれど、あと一歩向こう側があるんじゃないか、という気持ちも残った。感情の奥底に分け入って最後に芽吹いた光のような何か。僕は短篇小説という形で、そうした人間の小さくとも震えるような感情を表現してみたかったのでしょう」