連載 極地志願 第2回】人はなぜ自らの限界を試そうとするのか。2017年と18年に世界記録を樹立したフリーダイバーの廣瀬花子さんは「海中という『死』と隣り合わせの場所だからこそ、くっきりと『生』を実感することができる」という――。(文・聞き手=ノンフィクション作家・稲泉連)(後編/全2回)

病気がちだった子供時代

前編から続く)

1986年に千葉県で生まれた廣瀬は、子供の頃から海が好きだった。伊豆七島の御蔵島に父方の祖父母が住んでおり、休みの日に島へ行って海で遊ぶのをいつも心待ちにしていた。

「私は小学生の頃、腎臓の病気で入退院を繰り返した時期があるんです。激しい運動を制限されていたので、体育の授業も見学していることが多かったし、友達がスイミングを習っているのも羨ましく見ていました。でも、御蔵島に行くと、両親も『走らなければ、10分くらいならいいよ』と海で遊ぶことを許してくれた。普段は体をあまり動かせなかっただけに、海にいる時間が私にはとても大切で、嬉しかったんですね」

海との関わりは小学校を卒業し、病気を克服するとさらに強まっていった。中学生の頃に島の親戚がイルカウォッチングを始めた。彼女は仕事の「お手伝い」と称して船に乗り、海に潜ってイルカと戯れるようになった。

「ずっと『海』とかかわって生きていきたい、と思うようになったのはその頃からです。たぶん、私にとって海に潜っている時間は、自分がありのままの自分でいられる手段だったのだと思います」

「フリーダイビング」との出会い

そんな彼女が「フリーダイビング」という競技に出会ったのは、自宅のテレビで放送されていた映画『グラン・ブルー』を見たことがきっかけだった。フリーダイバーのジャック・マイヨールの半生を描いたこの映画を観たとき、彼女は「これを私はやるべきだ」と思った、と振り返る。

2頭のイルカと差し込む太陽の光
写真=iStock.com/TOSHIHARU ARAKAWA
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「当時から潜ることが好きだったから、『こんな世界があるんだ』って。自分はどれくらい潜れるんだろうと思ったし、きっと自分にもできるはずだと感じたんです。映画の中に出てくるフリーダイバーの人たちが、とても近しい存在に感じられました」

廣瀬は高校生になると、インターネットでフリーダイビングを習えるスクールを探した。当時は競技の情報は少なかったが、そのなかでたどり着いたのが、そのジャック・マイヨールと交流のあったフリーダイバー・松元恵のダイビングスクールだった。