自分の思い通りに育てようとした父
キックボクシングを習い始めた。週に2回、グローブを着けてサンドバッグを叩いたり蹴ったりしている。
70歳の私が健康維持のために始めるなら、もっと年齢にあったエクササイズを選ぶのが普通かもしれない。だけど私は、もの心ついたときから負けん気が強く、後先を考えずに突進する乱暴者だった。
子どものころから、行くなと言われればますます行きたくなって、一人で遠くまで行っては迷子になっていた。男の子数人を相手に取っ組み合いの大喧嘩をしたり、230メートルの薄暗い電車専用トンネルを一人でこっそり歩いて抜けてみたり。勝ち目があろうがなかろうが、怖いと思えば思うほど突き進むタイプ。はっきり言ってバカである。
これは、そんな私を自分の思い通りの娘に育てようとした親と、それに逆らい続けたじゃじゃ馬な私の、壮絶な戦いの物語である。
私の父は、当時ちょっと名の知れた編集者だった。ことあるごとに反戦平和・自由・平等を口にする、いわゆる「良心的左翼文化人」とされていた人だ。
テレビは禁止、クラシックとピアノと絵の習い事…
ところが、父が好んだのは禁止と管理。テレビは下劣で下品。あんなものを観ていたらバカになると言って禁止。クラッシック以外は音楽ではないと言って、歌謡曲も洋楽も禁止。文化的素養を身に付けさせようとしたのか、ピアノや絵を習わせた。習い事をしている子どもなど、まだほとんどいない時代だ。父は私を、利発な優等生にしたかったのだ。
けれども私は、大人しく親の言うことを聞くような子どもではなかった。東京郊外の、多摩丘陵を宅地化した新興住宅地。まわりは里山。私は、近所の男の子たちと丘陵を駆け回って木に登り、茣蓙を尻の下に敷いて急斜面を滑り降り、藪に分け入ってキイチゴを採ったりキノコを採ったり、田んぼでは泥だらけになってタニシやザリガニを採っていた。自由奔放、お転婆のかぎりをつくしていたのだ。
さっさとあきらめてくれればよかったのだ。だが父は、そんな私をますます厳しく調教しようとして、門限を決め、ピアノのお稽古は毎日1時間と決めた。おかげで、私はますます叱られることばかりするようになった。父に内緒でテレビを盗み見たり、友だちと遊びたくて門限を破ったり、お稽古をさぼったり。バレたら怒られるので、嘘をついたり、ごまかしたり。友だちみんなが持っているのに、絶対に買ってもらえない匂い消しゴムや紙石鹸を万引きしたり。