「ブタ野郎。出て行け。今すぐ死ね!」
子どもだった私の悪事はすぐにバレる。黙って見逃せば父に厳しく叱責される母は、私の悪事を余すことなく父に報告。おかげで私は、毎日のように父に怒鳴られ、しまいには、叩かれたり蹴られたりが日常となった。
学校に行くと熱が出て、保健室に入りびたりになったのはこのころだ。連れて行かれた東京女子医大での診断は「自律神経失調症」。そんな病名、当時は誰も知らなかった。父と母は、それを「甘ったれのわがまま病」と解釈。娘の根性を叩き直すしかないと思ったのだろう。私に対する父の「しつけ」は苛烈さを極めていく。
初めは防御する一方だったが、いつしか私は、父に殴られると応戦するようになっていた。殴り合いの大喧嘩である。どんどん厄介なことになっていく。
業を煮やした父は、「ブタ野郎。出て行け。死ね。いますぐ死ね!」と絶叫して、私を玄関のたたきに蹴落としたりする。家から出されても行くところなどない。しかもまだ中学生だった私は無一文。何度も、夜の住宅地をさまよいながら泣いた。悲しかったし悔しかった。しばらくすると、父が探しに来て私の腕をつかんで連れ戻す。「一人で生きられもしないくせに」とあざ笑う父。私は、歯噛みをするような屈辱感を味わっていた。
父の欺瞞に気づくことができなかった
「学校の成績などで人の価値は測れない」と言う父は、私の成績が下がるたびに「怠けている」と言って私を責める人でもあった。成績など重要ではないと言うくせに、娘の成績が下がることは許せない。まだ中学生だった私は、父の欺瞞に気づくことができず、成績が下がるたびに、背筋が凍るような恐怖を感じていた。「父の言う通り、私は怠け者のブタ野郎かもしれない」という、自分に対する疑いを打ち消すことができなかったからだ。
そんな私の唯一の逃げ場が本だった。本さえ読んでいれば、成績が悪くても大丈夫だと思っていた。父が編集者だったから、家には腐るほど本があった。片っ端から読んだ。意味がわからなくても読んだ。活字を追っていれば、すべてを忘れることができた。
中学3年になったころ、大学で始まった大学紛争に同調する若者たちが、燦々囂々集まって、新宿駅西口広場で反戦歌や革命歌を歌っていた。フォーク集会である。
私が産まれたとき、両親はともに共産党員だった。その後、2人とも共産党から抜け、当時、父は「ベトナムに平和を!市民連合=べ平連」の運動に参加していた。好むと好まざるとにかかわらず、私は、左翼思想にどっぷり浸かって育ったのだ。