それは、帰りの飛行機の中で起きた

なぜ、もう一度ここへ来なければならないと思ったのか。自問しながら、1年前に歩いた道を残らず歩いた。この街にあったなにかが、私を強く惹きつけたはずだ。それはなんだったのか。いくら歩いても、いくら考えてもわからなかった。大事なものをつかみ損ねたという失望を抱え、再び帰りの飛行機に乗った。成田までの直行便だった。

3カ月近くアメリカにいて、そればかり穿いていたので、私のジーンズはボロボロだった。臀部が大きく破れ、下着が見えていた。それでもニューヨークには、眉をひそめる人も、じろじろ見る人もいない。だから私は、下着が見えていることなどほとんど忘れて、そのままの恰好で飛行機に乗り込んだ。

飛行中の飛行機の機内
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ニューヨークを発った飛行機は、どんどん日本に近づいていく。あと数時間で日本に着くというとき、私の心に奇妙な変化が起きた。下着を見せて歩いていることが、急に恥ずかしくなったのだ。

乗客は、ニューヨークから成田までずっと一緒だった。搭乗したときは少しも恥ずかしくなかったのに、なぜ私は恥ずかしくなったのだろう。ここにはなにかある。考えなければならないなにかがある。そう思いながら私は、ジーンズの破れを隠すため、上着を腰に巻き付けて日本に戻った。

私を軽蔑する目は、父母の目だと思っていたが…

それから数日、私は、そのことを考え続けた。突然、わかった。

目だ! 私はベッドの上で起き上がり、ここ数日、考えていたことを復唱した。「飛行機の乗客は、ニューヨークから成田までずっと一緒だった。だから私が恥ずかしくなったのは、乗客の視線が原因ではない」。それから私は、おもむろに付け足した。「私が恥ずかしくなったのは、私を見る、私の目が変化したからだ」

私を見る目。私はそれを、ずっと自分の外にあるものと思っていた。私を非難し、断罪し、軽蔑する目。それは父の目であり、母の目であり、世間の目だと思っていた。違う。私のなかに、私を見る目がある。私を非難し、断罪し、軽蔑する目は、私の中にある私の目だ。

いまならわかる。それは価値観の内面化だ。父や母や世間の価値観。その価値観は、私を問題児と決めつけ、堕落していると決めつけ、まともに生きることができない人間と決めつけていた。反発しているつもりだった。私はそんな人間ではないと、叫んでいるつもりだった。だが、なんのことはない。私は、そのような価値観を内面化し、自分のことを、堕落したどうしようもない人間と決めつけて断罪していたのだ。