※本稿は、伊藤博敏『火葬秘史 骨になるまで』(小学館)の一部を再編集したものです。
「公共インフラ」化した火葬
火葬が公共インフラであることは自明である。そもそも火葬は、江戸時代後期以降、特に都市部でコレラなど伝染病の大流行に伴う公衆衛生の観点から土葬に代わる葬法として定着していった。
1897年には「伝染病予防法」が施行され、コレラ、赤痢、腸チフスなどの伝染病は、「公共の福祉」の観点から、すべて火葬に付すことが義務付けられた。これにより各地で自治体や行政組合が管理運営する公営火葬場が増え、民間火葬場も公営に統廃合された。
その流れに沿って、大阪市は1907年に30年の歴史を持つ長柄葬儀所を始め民営火葬場4カ所を次々に買収した。また京都市も1926年の市議会で右京区の龍安寺裏に建てられていた火葬場を買収し、市営の蓮華谷火葬場とした。
それに対して東京の火葬場の公営化は進まなかった。東京博善の火葬場が大正時代後半から僧侶経営となり、僧院の延長として公共に準じていたからという説明もなされるが、京都では宗派運営を1931年に買収しており理由にはならない。
「旗振り役」の不在で公営化できなかった東京
東京で民営火葬場の公営化が進まなかったのは、政治も行政も「旗振り役」が不在であったためだ。何度も買収の話が出たのに、踏み切る人がいなかった。
東京の火葬場は現在の都市計画にあたる市区改正によって、1889年、桐ヶ谷、代々木(代々幡)、落合、町屋、砂村の5カ所が指定された。桐ヶ谷の東京博善入りは1929年なので、この時点で4カ所が東京博善の所有である。当時、町屋の操業はまだだが、日暮里から移転することが既に決まっていた。
この5カ所は江戸市街の範囲を示す「朱引き」の外にあり、田畑の続く農村部だった。そこに2000坪以上の土地を確保させ、周囲に樹木を配し、火葬場が通行人の目に触れないようにした。

