滋賀の一部ではいまだ「名君」
たとえば、小田原征伐後、奥州に出陣した帰りに、中尊寺(岩手県平泉町)から「中尊寺経」を持ち出して高野山興山寺(和歌山県高野町)に納めている。また、足利学校(栃木県足利市)にあった漢籍の書物も京都に運んでいる。秀次には、戦国時代に質が低下した漢籍の学問を再興しようという意図があった、と考えられる。
漢詩文など信長も、秀吉も、家康も、関心がなければ素養もなかったが、秀次にはそれへの関心も素養もあったようなのだ。
あるいは、秀次が小田原征伐後まで本拠にした八幡城(滋賀県近江八幡市)の城下には、上下水道がともに完備されていたが、この時代の都市としてはきわめて稀なことだった。のちにこの町から近江商人が誕生する礎を築いたことになり、近江八幡ではいまなお、秀次は「名君」として伝えられている。
〈深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった〉なら、秀吉の欠点がみな修正された関白だ。ある時期まで、そんな秀次は秀吉にとって、頼もしい後継者だったのではないだろうか。だが、文禄2年(1593)8月3日、実子の拾が生まれたのち、秀吉が考えを変えても不思議ではない。
すぐれた好人物であればあるほど、秀吉の実子の拾、すなわち秀頼を脅かす存在になりかねない。秀吉が秀次を切腹に追い込んだ最大の理由は、そこにあると考えるのが合理的ではないだろうか。
秀次を「天下人の器ではない」とする「豊臣兄弟!」もまた、「秀次事件」後に「残虐非道」のイメージを押しつけた情報操作の影響から逃れられていない。
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