なぜ日本人は「体育会系」と呼ばれる人たちの汗や涙に感動してしまうのか。美学者でポピュラーカルチャーの哲学に詳しい難波優輝さんは「体育会系文化では、単に成果を出すことよりも、苦しいことを耐え抜く姿勢が称賛される。しかし、人が苦しむ姿をみて喜ぶのは奇妙な文化ではないか」という――。

※本稿は、難波優輝『アンチ・スポーツの哲学』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

勝利して駆け寄る野球選手の前でうずくまる負けた選手
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部活で「心が壊れた自分」に気づかなかった

友人とご飯を食べていたとき、打ち明け話をしてくれたことがある。むかし柔道をやっていたとき、コーチにひどいことをされたのだと。

「お前は俺のいうことをなんでも聞くよな? いま俺に抱きしめられても嬉しいよな」と、言われて、「はい! 嬉しいです!」と元気よく返事をした。コーチは満面の笑みを浮かべた。「お前は本当にかわいいやつだな」――。

私はそれを聞いてなんてひどいのだろう、と思った。より悲しかったのは、「そのときは、愛だと思った」と友人が言ったからだった。「そのときは、本当に嬉しいと思ったし、師弟の愛情の関係だと思った」。

けれど「いまは、なんてひどい体験だったのだろう、と思い返せる」と言った。そのとき、心が壊れていたのだと。もう今の自分は、ちゃんと傷つくことができる、と言った。私は、そのような環境で柔道に打ち込んでいた友人に「頑張ったなあ」と労いの言葉をかけた。

体育会系は「我慢」重視で「休む」を認めない

本稿では、スポーツ文化と体育会系文化の違いはどこにあるのかを考えたい。

私が考える体育会系文化とは、〈スポーツ〉の技術やルールそのものではなく、集団の中で「努力」「我慢」「上下関係」「同調」「継続」を特別に重視し、逆に「休む」「辞める」「その集団以外の生活を尊重する」ことを低く評価しがちな文化のことである。

典型例として中高大の運動部やスポーツクラブを念頭に置くが、同じような文化は受験や職場など〈スポーツ〉以外の領域にも現れることを付け加えておく。

考えていく中で、実はスポーツ文化と体育会系文化には思いも寄らないずれがあることが見えてくるはずだ。

一部に根強く残る体育会系文化のなかに生きている人がどんなふうに苦しんでいるのかを言葉にしていくことで、私は、体育会系文化の中で「自分がしんどい思いをしているこの環境が当たり前だ」「ここでうまくやっていけなきゃどこでもやっていけない」と思っている人に、当たり前じゃないぞ、と言いたい。

そこでやっていけなくっても、どこでもやっていける場所はあるぞ、と言いたい。そして、あなたが苦しんでいる体育会系文化とは、スポーツ文化そのものではない、と言いたいのだ。