※本稿は、難波優輝『アンチ・スポーツの哲学』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
順位をつけない「運動発表会」は間違いなのか
「スポーツは人間性を育てる」と世間ではまことしやかに言われる。
だが、もし〈スポーツ〉が常識的な道徳とは独立した営みなのだとしたら、少なくとも日常的な道徳心などは、いくら〈スポーツ〉をやっても養われないのではないか。
いま「運動会」は減っている。代わりに「運動発表会」や「体育学習発表会」が行われている。これらは競争をベースにしたものではない。近年、とくに小学校では、運動発表会は、授業参観の体育バージョンとして位置づけられているという。
ダンスなどの演目が重視されており、とりわけ「徒競走」においては、順位をつけないことも多い。誰が1位を取ったのかはゴールの瞬間を見れば見て取れるわけだが、結果発表のときには順位ごとには並ばない。
コースごとに並び、誰が何位なのかパッと見では分からないという(峯 2023)。そして、徒競走だけではなく、運動発表会の様々な演目にしても、明確に勝ち負けを決めたり、発表することは減り、さらには、紅組白組に分かれて勝利を競う、というのも少なくなっている。
競争してなんぼではないのか
多くの人は驚くかもしれない。「徒競走」なのに、競争しない、順位をつけないのかと。運動会と言えば、紅組白組に分かれて、どちらが勝つかを競ってなんぼではないか、と。
実際、いまの運動発表会や徒競走のあり方に対して、しばしば親・教員・周囲の大人の目線から疑問の声が上がってはいる。
順位を付けないのは、運動会で輝ける子どもの機会を奪っていないか。負けを知ることも大切。少し過保護のような気がする。(小4男子ママ)(峯 2023)
親の目線からみると、「負けを知ることも大切」であり、運動発表会で勝ち負けを競わないのは「過保護」に見える、という。なぜ負けを知ることは大切なのだろうか。

