成長はスポーツ的競争からしか生まれないか
運動会の徒競走のような、スポーツ的な競争によって成長する、と言われているものは何だろうか。何が「成長」するのだろうか。「たくましい精神」とは何なのだろうか。
そもそも「成長(growth)」とは何だろうか。第一に、成長とは、大きくなることである。体積、身長、体重。これらが大きくなると成長した、と言う。けれども、食べられるだけたくさん食べることは成長とは言わなさそうだ。
第二に、成長とは、能力の獲得である。ピアノがうまくなる。歩けるようになる。ものを深く考えられるようになる。
成長とは、何らかの能力を得ることを意味する。木が成長するのは、木が大きくなることによって目に見える。けれども、木としての能力を発揮できるようになることの結果として大きくなっているだけだと思える。
喪失すると同時に獲得する能力
成長の反対は、退化(degrowth)、何かができなくなることだとされる。つまり、一見して何かの能力が喪失していくことだ。
だが、喪失していく能力と獲得していく能力がある。老いることで若かった頃よりも素早くは動けないけれど、ものごとにどっしりと構えられるようになるかもしれない。より多くのことに共感し、親身になれるかもしれない。
それは確かに成長と言うべきだ。認識能力や情動の能力の成長。ここから分かるのは、成長とは、価値含みの概念だということだ。何を「能力」とするかによって、成長するかどうかが変わる。
例えば、ビジネスの場での交渉術を身につけ、相手の隠したい弱みや漏れ出る焦りを見抜いて、自分にとって有利な契約を結べるようになることは、その職種における成長である。
赤ちゃんが退化することはない
けれども、もし、その過程で、相手を利用すべき手段としてしか見なくなり、長期的な信頼関係や人間としての誠実さを軽視するようになるなら、それは人間の徳としては退化でもある。成長と退化は、つねに結びつく。
赤子がいる。何もできない。成長していく。同時に、何もできないことがなくなる。単純なことですぐ大笑いしていたのに、もう笑わなくなる。見方を変えれば、これは退化ということもできる。
もちろん、私たちは人が動けるようになること、大人らしくなること、いまの社会に適合できるようになることを適切な「能力」とみるので、立てるようになった赤子をみて、すぐに笑わなくなった子どもをみて「退化しちゃったなあ」と言うのは、変である。ユーモラスではあるけれど。

