※本稿は、難波優輝『アンチ・スポーツの哲学』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
「礼儀」と「上下関係」は本当に必要か
体育会系文化にはなくてはならないものがある。そして、しばしば議論になるポイントがある。それが、「礼儀」と「上下関係」だ。
体育会系文化は、礼儀に厳しい。きちんと先輩を敬わなければならない。それゆえ、体育会系は礼儀正しい、といったりする。確かに、ある種の絶対君主的な権力を上級生がもっていることがあるだろう。
なぜこうした仕組みが体育会系文化ではしばしばみられるのだろうか。そして、体育会系文化のほうが、他の文化、例えば、音楽文化などとは違う独特な仕方でこうした礼儀と上下関係を重要な価値観として埋め込んでいるのだろうか。
それは、〈スポーツ〉そのものの何かに関係があるのだろうか。礼儀正しさがチームの関係性を向上させる、といろいろなところで耳にする。
体育会系の礼儀は一般社会に通用するか
確かに、いかにも正しそうだ。礼儀正しい人、少し別の意味だが、謙虚な人を嫌う人はそういないだろう。一緒にいて気疲れしない。
さて、では、体育会系文化は礼儀を涵養してくれるのだろうか。一生懸命勝利を目指して頑張る若者たちは、礼儀を身につけられるのだろうか。
私はよく分からない。そもそもそこで言われている礼儀というのは、ごく限られた体育会系文化において重視される礼儀に過ぎないように思うのだ。
例えば、社会に出ると、メールで宛名・あいさつ文・締めの言葉・署名をきちんと書くことや、電話で明るくはっきり名乗りつつ相手に配慮して応対することのような、別種の礼儀が大事になる。
あるいは、相手の都合や心理的な負担に配慮して、威圧せず、適切な距離感を保つことも重要な礼儀だろう。
単なるローカルな文化である
しかし、こうした礼儀が、体育会系文化の中でとくに鍛えられるわけではない。「大きな声で挨拶できる」とか「先輩や指導者に対して素早く従順にふるまえる」といった、作法が鍛えられるだけではないか。
となると、体育会系文化の礼儀が体育会系文化の中で通用する、というだけのことになる。それはローカルな文化としてはもちろん成り立っている。だが、そのローカルな礼儀を、あたかも礼儀一般であるかのように語るのは、言いすぎだろう。
しかし、ではなぜ、そんな限定的な礼儀が、礼儀一般のような顔をして受け継がれるのか。それはおそらく、その礼儀が人を対等に尊重するためというより、上下関係をはっきりさせ、命令と服従の文化を維持するのに都合が良いからではないか。
つまり、それは礼儀の涵養ではなく、統制の技術として機能しているのである。

