体罰によって腐敗した勝利を得る

そもそも、よい成績を修めることと、礼儀正しさが関係のないスポーツも多くあるだろう。また、体罰や暴言を吐くスポーツ指導者の礼儀というものも疑うことができる。

グラウンドで練習をする野球選手を眺める監督
写真=iStock.com/BeauSnyder
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たとえ体罰や暴言があったとしても、その監督やメンバーが勝利に導いてくれた、と認識すると、人々はそれらに対して容認感情を持ってしまう。

だが、ふつうに考えて、勝利と体罰は天秤にかけるべきものですらない。体罰なしでは勝利できないのだとしたら、そんな腐敗した勝利など投げ捨ててしまえばよいだろう。

体罰はなぜなくならないのか

だが、勝利することが、何よりも自分やチーム、さらには周囲の親たちのためになるのだ、と過剰に考えてしまうと、とくに若い人々のあいだでは、自分や他人になされた体罰を「しかたがないもの」「意味のあったもの」と受けとめてしまう力が働く。

もちろん、すべての被害者がそれを容認するわけではない。だが、体罰が勝利や成長と結びつけて理解されると、それを明確に拒絶しにくくなることがあるのだ。

例えば、社会学者の阿江美恵子の研究によると、体罰をされたことのある体育会系女性大学生の7割が体罰をした指導者に対して「自分の成績が上がった」などと、肯定的な評価をしていることが報告されている(※1)。

さらに、阿江の研究を踏まえたスポーツ心理学の研究では、体罰経験者のほうが未経験者よりも体罰容認的態度を示しやすいこと、また被体罰経験が体罰容認度に正の影響を及ぼすことが示されている(※2)。

ここで問題なのは、体罰を肯定的に意味づけてしまう心理的な論理が存在している、ということだろう。

管理と制裁の恐怖で育成されたスポーツ選手

そもそも、社会学者の片岡栄美が指摘するように、「礼儀」の名のもとに、理不尽な抑圧や暴力が体育会系文化においては正当化されがちなことを見逃してはならない。

片岡の研究によると日本的アスリートの自律性とは、管理と制裁の恐怖の中で育成された自律性であり、西洋的な意味での自己規律的な主体性とは異なる。それゆえスポーツ以外の場では、規範を破り、自律的ではなくなることも多い。スポーツ以外の体験が少ない彼らは、同質的なメンバーとの相互作用に偏り、多様な価値観を知らないまま外的権威への同調的価値を持ちやすい。(※3)

そういうわけで、体育会系文化が「礼儀一般」を涵養できるかのような顔をしていることにこの節では批判を加えてきた。体育会系文化が涵養する礼儀とは、ごくごくローカルな礼儀なのである。