「競争」というプレッシャー
それゆえ、体育会系的な「礼儀」「上下関係」という暴力を正当化しているのは、それが勝利に結びつくかどうか、という実質的な意味ではなく、それが、従順な選手を育て、上位の存在のコントロール下に置きやすいから、あるいは、ガス抜きとして、暴力や抑圧の支配欲をメンバーに満たすことが可能だから機能してしまっているに過ぎない。
これらの抑圧の根本には、競争のプレッシャーが存在しており、つくづく、競争というものは、危険なものだと思う。
時代や社会の要請で、体罰や暴力は許されない方向に動いている。体育会系文化のあり方も変わっている。それでも時々、体罰や暴力がニュースになると、体育会系文化が暴力を用いたコントロールに頼ってしまう構造の根深さを私は思うのだ。
「体育会系」という文化に踊らされるな
本稿の議論は何のために行ったのか。それはスポーツ文化と体育会系文化はしばしば同一視されるけれど、体育会系文化とスポーツ文化は実はかなり異なる文化であることを明らかにするためだった。
スポーツといっても、アメフトから卓球や登山まであり、そのどれもが「体育会系文化」を体現しているわけではないはずだ。だが、日本においてスポーツ文化は体育会系文化として現に現れて営まれている部分がある。
そこから目を逸らしては〈スポーツ〉について語ることはできなかった。体育会系をめぐる問題を論じてきたのは、スポーツ文化と体育会系文化を切り離すための作業の一つだった。
純粋な〈スポーツ〉は体育会系とはまったく関係のないあり方も可能なはずだ。私は、体育会系の人々を糾弾したり批判したいのではなく、体育会系という文化そのものを批判したいのだ。
それに絡み取られ、人に傷つけられている人、そして、人を傷つけてしまう人、被害者も加害者もみな、体育会系文化という見えない力に踊らされている。
その見えない力を、私はささやかでも言葉にしたかった。そうすることで、その見えない力から、人々の力を奪い返して、もっと別の仕方で〈スポーツする〉可能性を考えられるかもしれない。
※1 阿江美恵子、2019年「教育における体罰禁止通達後3か年にわたる運動部での体罰の現状と体罰禁止教育の効果」『東京女子体育大学・東京女子体育短期大学紀要』54号、1〜10頁。
※2 豐田隼、山田智之、加戸隆司、飯塚駿、百瀨光一&遠藤俊郎、2023年「学校運動部活動における体罰容認意識の説明要因に関する研究」『スポーツ心理学研究』50巻1号、20〜30頁。
※3 片岡栄美、2021年「体育会系ハビトゥスにみる支配と順応:スポーツにおける「理不尽さ」の受容と年功序列システムの功罪」『スポーツ社会学研究』29巻1号、5〜23頁。
※4 東洋、1994年『日本人のしつけと教育:発達の日米比較にもとづいて』東京大学出版会。
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