敗北と捻じ曲がった支配欲

こうした「礼儀」という名の暴力は、結局のところ、勝ち負けをひたすらに気にする体育会系文化を源流としている。

片岡は「活躍できない選手や負けた選手は相対的な剥奪感や嫉妬から、容易に規則厳格主義になり、あるいはインフォーマルな場で弱者(下級生)へのいじめや体罰、スケープゴートを容認する文化の肯定へとつながっていた。

これも一種のねじ曲がった支配欲の表れであり、支配欲を満たす戦略の一つである」(※3)と指摘するように、結局のところ、勝利をしなければ尊重されない体育会系文化において、その挫かれた自尊心を回復するために、より立場の弱い人間をいじめるという態度が醸成されるのだ。

根強く残る「礼儀の名による暴力」

もちろん、この悪循環は、〈スポーツ〉とまったく無関係なところから降って湧いてくるわけではない。〈スポーツ〉には勝敗があり、競争がある。それゆえ、その競争の結果をどう受け止め、どう意味づけるかが問題になってきた。

体育会系文化とは、結果に加えて競争のプロセスそのものに努力・我慢・服従・体罰といった価値を過剰にまとわせた文化なのだ。つまりそれは、〈スポーツする〉ことと無縁ではないが、〈スポーツする〉ことそのものでもない。

〈スポーツする〉ことの本質である競争の種が、日本社会の空気を吸って、肥大化し、ねじれたかたちで花を咲かせ、制度化されたものなのである。

職場で若いスタッフを叱責する中年の上司
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同時に、競争を無批判に肯定し、そして、そのための努力・挫折・体罰を必要なものとする態度、少なくとも、否定すべきものとして切り捨てない態度が、体育会系文化のなかで根強く残る礼儀の名による暴力を温存しているのだ。

コントロールするための「礼儀」「上下関係」

そしてまた、こうした体育会系文化は、日本における教育のねじれたありようを映し出してもいる。

古典的な研究として、心理学者・東洋ひがしひろしは、日米の子どものしつけを観察し、アメリカのほうがむしろ親は子どもに権威的に命令していることを発見した。

それに対して、日本の親は、権威的に命じる(instruction)のではなく、子どもに親の気持ちを配慮させ、親の意向に自分から従う「滲み込み」的なしつけであると指摘している(※4)。

これはたいへんな慧眼といえよう。権威的に命じる際には、その命令をする者には責任があり、それに対する反抗が明確に可能である。

しかし、命じるのではなく「私の思いを汲むならこういうふうに動いてくれるよな」と配慮を求める――陰湿な――方法は、それに対する反抗を「恩知らず」であったり「配慮のない者だ」となじることを可能にするわけだ。

このたいへんに優れた滲み込みの指導によって、体育会系の陰湿な体罰が支えられてきたのではないか。